大正時代から戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 18:17 UTC 版)
定説はない。1962?1964年度の民俗調査『日本民俗地図』、大正末?昭和初期の『日本の食生活全集』を参照しても大豆・いわしを食べる習慣はあっても立春の節分に巻き寿司を食べる記載は見つけられておらず、節分に寿司類を食すると記録されていたのは五目ちらし(東京)、五目ずし・にぎりずし(静岡県)、すし(徳島県・愛媛県)であった。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}この風習は、もともとは大阪に始まると考えられているが、起源は定かではない……定説はなく、不明である。 —大阪歴史博物館、節分「丸かぶり寿司」の風習、2014年 すしの研究で名高い篠田統の「すしの本」、節分と巻きずしの項に以下のような記述が見られる……ここで語られている「大正初めには存在していた」というのが、辿れる「確からしい」記録 の中ではもっとも古い時期を示すものとなる。 —沓沢博行、現代人における年中行事と見出される意味-恵方巻を事例として-、2009年 沓沢が参照した篠田統の『すしの本』(1970年)では1969年に大阪市上本町の鮨店・美登利が著者達へ語った大正初期の花街あたりの伝承が伝聞記録されている(鮨店・美登利は1940年、大阪鮨商組合の広告チラシを配布している)。 節分と巻きずし 四十四年の節分の日、日本風俗史学会食物史分科会の月次例会の席上、大阪市立博物館の平山敏治郎館長から「ここへ来る途中、阿部野橋のすし屋の表に本日巻きずし有りという広告を見たが、何のことかしら」という質問があり。美登利鮓の久保登一の返事に、節分に巻きずしを食べる風は大正初めにはすでにあった。おもに花街で行われ、ちょうど新こうこうが漬かる時期なので、その春の香の物を芯に巻いたノリ巻きを、切らずに全のまま、恵方のほうへ向いて食べる由。老浪華人の塩路吉兆老も今日まで知らなんだ、と言われる。もちろん、私も初耳だ。普通の町家ではあまりやらないようだ。全国ではどうだろうか。 — 篠田統、 すしの本、1970年 と記述され、1969年当時は浪速っ子である篠田統・塩路吉丁、大阪市立博物館の平山敏治郎館長さえ知らなかった事情がうかがえる。 "新こうこう"という大阪ことばは無いが、しんこはしんこ餅・新粉の餅(京都では白糸(しらいと))、こぉこは新香・おしんこ(京都ではおこーこ)である。巻(まき)は大阪ことばで小田巻、玉子巻・巻きずし、船場ことばでちまきの略称である。しんこ即ち上新粉の餅はちまきの中身でもある。阿部野橋は明治30年4月に大阪市へ編入された旧天王寺村エリアである。 1955年の体験で、1841年創業の大阪・船場は吉野寿司の大山も節分の巻き寿司は知らなかったと証言している。 大阪ずしの老舗「吉野寿司(すし)」(大阪市中央区)の大山雄市さん(68)は「兵庫県のすし屋に入った1955(昭和30)年ごろの節分の夜。出前先で、仕事にあぶれた芸者衆が巻きずしを丸かぶりしていた。行儀悪いのに女の人がなぜこんなことを、と思ったが『いいだんなに巡り合えますように』という願掛けの意味があると教わった」と話す。「当時はごく一部の風習だと思っていた。後にこんなに盛り上がるとは」と驚く大山さんは「おせち料理のゴボウのように、長いもの、丸いものは縁起物の一つ。縁起物を食べて願いをかなえたい、何かにすがりたい、という思いは今の人も同じでしょうね」 — 毎日新聞、[食]巻きずしの「丸かぶり」 ガブリ、もぐもぐ…「幸せ来〜い!」、2004年1月26日 1932年、大阪鮓商組合が販売促進の目的で「巻壽司と福の神 節分の日に丸かぶり」と題する広告チラシを配布し、「幸運巻壽司」の宣伝を行った。 巻壽司と福の神 節分の日に丸かぶりこの流行は古くから花柳界にもて囃されてゐました。それが最近一般的に喧傳して年越には必ず豆を年齡の數だけ喰べるやうに巻壽司が喰べられてゐます。これは節分の日に限るものでその年の惠方に向いて無言で壹本の巻壽司を丸かぶりすれば其年は幸運に惠まれると云ふ事であります。宣傳せずとも誰云ふともなしに流行って來た事を考へると矢張り一概に迷信とも輕々しく看過すべきではない。就ては本年の幸運をば是非平素御愛顧蒙る御得意樣にも斯樣な事も御承知能ひ永續の御繁榮を切に乞ふ譯であります。一家揃ふて御試食を願ひ本年の幸運をとり逃さぬやうお勸め申します。昭和七年節分二月四日 惠方西北(亥子ノ間)幸運巻壽司 一本金拾五錢 大阪鮓商組合 — 大阪鮓商組合 チラシ 1940年、大阪鮓商組合後援会にて「節分の丸かぶり壽司」に関する広告チラシを発行した。当時の価格は1本20銭。 幸運巻寿司 節分の日に丸かぶり巳の日に巳壽司と云ふてお壽司を喰べるやうに毎年節分の日にその年の惠方に向つて巻壽司を丸かぶりすると大變幸運に惠まれるという習しが昔から行事の一つとなつてゐて年々盛になつてゐます。お得意様にも一家揃ふて御試食願ひ本年の幸運をとり逃さぬやうお勧め申上ます昭和十五年 節分 二月四日 惠方西(申酉の間)幸運巻寿司一本金廿銭 大阪市東区上本町一丁目美登利御得意様 (昭和十五年二月 大阪鮨商組合後援會發行) 1932年、大阪鮓商組合は節分豆との比較で花柳界での巻寿司風習を述べ、1940年は花柳界ではなく巳の日に鮨を食する京都の古習慣である巳鮨(みずし)を例にあげて説明している。みずし(御厨子)は内膳司御厨子所の女官、みずし(水仕)は下女も意味する。雛祭は上巳の節句。前回広告チラシを配った際の1932年の2月4日(旧暦12月28日)節分の日の干支は乙未であるから、1940年は先例1932年が巳の日であったのを鑑みて巳鮨の習慣を例に挙げた可能性がある。 沓沢は篠田統が美登利鮓の久保登一から1969年に聴いた伝聞、大阪市内天満の(本)福寿司他で保管されている1932年のチラシの記述、大阪市内の美登利鮓が配布した1940年の広告チラシの記述に大正時代の記載があるため大正時代からの習慣であろうと推定。寿司業界がそれを利用して古くからの伝統であるという触れ込みで販売促進活動をしたということはいえるとした。大阪歴史博物館は船場起源説・花街風習説も不明で、昭和初期から寿司業界関係者が宣伝していたが戦後も知名度は極めて薄かったとしている。 1949年、土用の丑の日に鰻を食べる習慣に対抗する販売促進手段として、大阪鮓商組合が戦前に行われていた「節分の丸かぶり寿司」広告の復活を画策した。1955年頃、元祖たこ昌の山路昌彦が、当時行っていた海苔販売の促進活動の一環として恵方巻を考案。 昭和40年代前半には、大阪の海苔問屋協同組合とすし組合が連携し、行事普及活動の一環として飛行機をチャーターして広告ビラを撒いた。ただしこれは、経費過多により1回のみの実施に終わった。 この時期、4代岡本文弥のエッセイ「品変る」(『ぶんやぞうし』新日本出版社、1980年、p28-29)によると、大阪で節分をすごしたときに、「福ずし」と呼ばれる「馬の陽物大の海苔巻き」を「恵方に向かってかしこまる。それぞれ願い事を念じつつ福ずしを食べ終れば念願成就の由、但し口をきいたらダメ」という風習に出会ったことが記されている。なお、「少したべても『頂きました』の挨拶で許される」とのことである。
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