大正時代以前
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技能集団としての発祥は江戸時代後期と伝えられる。能登半島の海岸沿いの丘陵地は耕地面積が狭く、農業を営むには不適で、ほかに特産物もなかったために、農閑期には近畿地方へ酒造りのための出稼ぎが発生した。こういう人々は能登衆(のとしゅう)と呼ばれ、他地域からの杜氏集団とは異なる、独自の酒造技術を伝承していった。 明治時代には大津に能登衆の職業斡旋所である能登屋(のとや)という組織が誕生した。能登屋では杜氏や蔵人を主に近江や山城の酒蔵へ斡旋していた。 やがて鉄道ができると、斡旋先は富山、石川、福井、滋賀、京都、愛知、三重、静岡の各府県へと拡大した。 杜氏組合としての発祥には二説あり、日本酒評論家の藤田千恵子によれば、明治34年(1903年)にすでに能登杜氏組合設立にともなう記念行事として同年8月に初の酒造講習会が開催されたという。 いっぽう酒蔵環境研究会によれば、明治37年(1906年)に珠洲郡杜氏組合がはじめに設立され、これが大正10年(1922年)に至って能登杜氏組合に改称されたのだ、としている。
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大正時代以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 06:48 UTC 版)
江戸時代とくに宝暦4年(1754年)の勝手造り令以降、日本酒の製法が四季醸造が寒造りへと移行していったため、米の収穫が終わると冬は積雪が深くて裏作の麦もできず、海も荒れて出漁できない越後の村から、貧しい農民が冬場の醸造のために関八州や尾張へと出稼ぎに行ったのが発祥である。より多くの人手を欲している造り酒屋と、農閑期の現金収入を得たい農民とのあいだで利害が一致したことが、杜氏集団の形成に寄与したといえる。 彼らのなかにはその誠実な働きを認められて造り酒屋の当主と養子縁組した者、暖簾分け(のれんわけ)をしてもらった者、酒株を購入して自分の小さな造り酒屋を開いた者もいる。こうした造り酒屋を越後店(えちごだな)という。
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