栽培・流通の形態変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 23:15 UTC 版)
食糧管理法の時代は、収量の大きい米の栽培ばかりが促進されたために、多くの優れた酒米が絶滅した(参考:昭和時代後期)。また1980年代頃までは、ほとんどの蔵(酒造メーカー)は農協などから一括して酒米を買い入れ、これを精米し醸造していた。こうした農協経由では「1俵につきいくら」という売買になった。それが、一時期酒米の質が落ちていった原因の一つといわれている。またこれでは、杜氏が自分がめざす酒質に適合した酒米をとことん追求できなかった。こうしたいわゆる「顔の見えない」流通形態が、昭和後期以降の日本酒の消費低迷を招いた一因ともなっていった。 その反省から、1990年代以降は自前の酒米用農地(田んぼ)を持ち、春から秋にかけては米作りを、秋から春にかけては酒造りを行う蔵や、酒米作りを専門とする農家と栽培契約をむすび一体化した生産体制に切り替える蔵が急増している。この形態を農醸一貫などといい、自ら稲作も兼ねている酒蔵を自栽蔵、もしくはブドウから栽培するフランスのワイン農家になぞらえてドメーヌ蔵などという。それだけ原料である酒米へのこだわりが強くなり、酒は米から造る時代になってきたとも言われるわけだが、歴史的にみれば大正時代以前の生産形態へ回帰しているともいえる。 また、日本酒と同じ原料・製法による「SAKE」の海外生産が増えていることから、JA全農などによる酒米の輸出も始まっている。
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