江戸時代から大正時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 03:34 UTC 版)
「狛江弁財天池特別緑地保全地区」の記事における「江戸時代から大正時代まで」の解説
江戸時代、本地区のある地域は和泉村と称され、彦根井伊家、旗本石谷家、旗本松下家の三家が分割して支配していた。1609年(慶長14年)に六郷用水が開削された。六郷用水は本地区の北側を通り、野川(当時の野川は現在よりも本地区に近いところを流れていた)へとつながっている。さらに当時、弁財天池から湧き出た水は清水川となって、野川へと流れていた。江戸時代の和泉村は、六郷用水などを利用して農業中心の生活をしていたものと推定されている。 明治時代の狛江も農村で、畑地が多かった。泉龍寺には1872年(明治5年)に公立観聚学舎(狛江第一小学校の前身)が建てられ、1889年(明治22年)から1923年(大正12年)までは役場も置かれた。 1926年(大正15年)には、現在の管理区域の中に「松の葉」という料亭が建てられた。この料亭は垣根で池の周りを囲んだため住民は池の水を使えなくなってしまった。1927年(昭和2年)、住民が雨乞いのために垣根を壊して池に入り込み、警察が出てくる騒ぎとなった。この事件は、関係者である当時の村長の排斥運動にまでつながった。これ以後、池に垣根が作られることは無くなった。
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