江戸時代から明治までの日本各地の鯨料理とは? わかりやすく解説

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江戸時代から明治までの日本各地の鯨料理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 15:49 UTC 版)

鯨肉」の記事における「江戸時代から明治までの日本各地の鯨料理」の解説

江戸時代から組織的な捕鯨が行われるようになり、それら捕鯨地域周辺漁村では、鯨肉常食とされていた。例え幕末捕鯨地の長崎訪れたシーボルトも、しばしば鯨料理供されたことについての記録残しており、中には鯨ひげサラダ」などの特異な献立記されている。ツチクジラは、現在の千葉県房総半島太平洋岸のように、該当種捕鯨が行われてきた地域では古くから食べられ特有のクセ応じた調理法工夫されてきた(鯨肉干物の「鯨のたれ」と呼ばれる加工品など)。 流通の常(つね)で生産地周辺地域広く消費される傾向にあるが、大坂など近傍経済圏にもこの頃生まれた伝統的な鯨肉料理存在する京都では「吸い物」が食べられているのを井原西鶴著書の中で紹介している。十返舎一九東海道中膝栗毛のなかで大坂淀川で「煮付け」を紹介している。高知県では土佐藩高知城下を中心に数々鯨料理伝承されており、特に「はりはり鍋」は代表的な物の一つである。江戸城下では鯨肉素材調理した鯨鍋」や「みそ汁」や「澄まし汁」などが食され、「ホリホリ」「鯨のし」などと称した頭部軟骨加工した珍味売られていた。全体的な傾向としてはシロデモノと総称され皮下脂肪尾羽好まれ尾の身も高級品とされていたが、赤肉については房総半島一部などを除くとあまり歓迎はされなかったようである。 行事などと結びついた料理生まれた江戸含め日本各地12月13日煤払いすすはらい)の後は「鯨汁」を食べ習慣広まりその様子は沢山の川柳記述物売り鯨肉扱っていた記録残されている。秋田でも鍋物としては珍しく夏の暑気払いとして「貝焼(くじらかやき)」という鯨のしょっつる鍋が江戸時代から食されており、夏場になると五艘程度小舟船団漁に出ていた記録残されている。そして明治開拓以降北海道日本海側各地正月料理として鯨汁食されるのは、秋田藩中心とした東北人々移り住んだ名残といわれている。北海道アイヌ民族鯨食江戸時代よりも古いとされる同じく夏の土用食べ物としていた地域多く九州農村では土用備えて各戸で一ずつもの皮の塩漬け作る地域もあった。塩蔵すれば魚類よりも長期間保存輸送耐えることを活かして少量各地輸送され一般海魚運ばれい山等で正月などハレ晴れの席)の料理供されていた例もある。

※この「江戸時代から明治までの日本各地の鯨料理」の解説は、「鯨肉」の解説の一部です。
「江戸時代から明治までの日本各地の鯨料理」を含む「鯨肉」の記事については、「鯨肉」の概要を参照ください。

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