江戸時代から明治時代初期の加治屋町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 02:59 UTC 版)
「加治屋町 (鹿児島市)」の記事における「江戸時代から明治時代初期の加治屋町」の解説
江戸時代の加治屋町は薩摩国鹿児島郡鹿児島城下のうちであった。 周辺には鹿児島城下の武士屋敷が多くあり、城下町内では鶴丸城から遠い位置にあったことから、主に小姓与(おこしょうぐみ)と呼ばれる城下士の中でも下級にあたる武士の居住地であった。また加治屋町は近世においては上之加治屋町、下之加治屋町と分けられており、郷中としては上之加治屋郷中、下之加治屋郷中、馬乗馬場郷中が置かれた。 元禄16年(1703年)には地内の勝目殿屋敷から出火、町域内の下町まで延焼し、士屋敷248所(1,006軒)、町屋敷385所(790軒)、南林寺及び脇寺12所(51軒)、門前90所(170軒)を焼失する大火となった。 加治屋町の区域に居住していた下級武士の中には江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した者が多くおり、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、大山巌、東郷平八郎、樺山資紀などの英傑と呼ばれる人物を数多く輩出した。現在ではそれぞれの生地に記念碑が建立されている。 また、明治維新から日露戦争までの期間に活躍した政治家、軍人など明治政府の中枢の多くを加治屋町出身者が占めていた。このことから『翔ぶが如く』など数多くの歴史小説を執筆している歴史小説家の司馬遼太郎は加治屋町について以下のように述べている。 「 いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである。 」 —司馬遼太郎 なお、江戸時代の遺物となるものは西南戦争の戦闘(1877年)や鹿児島大空襲(1945年)により焼失しているが、区画や通りは江戸時代当時のままとなっている。 1871年(明治4年)に実施された廃藩置県により鹿児島県が設置され、加治屋町は鹿児島県鹿児島府下の町となった。
※この「江戸時代から明治時代初期の加治屋町」の解説は、「加治屋町 (鹿児島市)」の解説の一部です。
「江戸時代から明治時代初期の加治屋町」を含む「加治屋町 (鹿児島市)」の記事については、「加治屋町 (鹿児島市)」の概要を参照ください。
- 江戸時代から明治時代初期の加治屋町のページへのリンク