江戸時代と宇和島藩主
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慶長7年(1602年)9月、徳川家康に拝謁し、徳川氏の人質として江戸に向かった。だが正室である愛姫(このとき、数え年で政宗36歳、愛姫35歳となっており、当時としてはかなりの高齢出産であった)との間に虎菊丸(のちの伊達忠宗)が生まれ、夭逝せずに無事に育ったため、慶長8年(1603年)1月に政宗は虎菊丸を家康に拝謁させ、秀宗の立場は微妙になりだした。慶長14年(1609年)、秀宗は家康の命令で徳川四天王で重臣の井伊直政の娘の亀を正室として、徳川陣営に取り込まれる事になる。だが弟の虎菊丸が慶長16年(1611年)12月に江戸城で元服し、将軍秀忠から一字を賜って忠宗と名乗った事により、事実上秀宗は伊達家の家督相続者から除外されることになった。この事情に関しては政宗の長男であったが、生母の飯坂氏が側室だったために本家の家督を嗣ぐことができなかったとされてきたがこれは誤りと言われており、「秀」の通字を受けて秀吉・秀頼の側に仕え、一時は豊臣姓まで賜った秀宗が徳川氏の世では仙台藩主としてふさわしくないという理由で実際には除外されたとされている。 このため別家を興すことを父・政宗が考える。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には父と共に参陣し、初陣を飾る。戦後、大御所徳川家康から参陣の功として政宗に与えられた伊予宇和島10万石を別家として嗣ぎ、同年12月25日にその初代藩主となった。家臣団の多くは政宗が伊達家中から選んだ者で、秀宗入部の際、57騎騎馬団のほか足軽、小者あわせ約1200名がいたとされる。重臣は政宗の意を受けて秀宗を輔弼した。また、藩政整備のための初期資金として仙台藩から6万両の借財をした。 元和6年(1620年)、家老山家公頼は一族皆殺しにあう。後年作られた伝説では桜田玄蕃一派が襲撃したと言われるが、玄蕃本人は当日大阪におり、実際には「御成敗」であった。 秀宗はこれを幕府や政宗に報告しなかったことから、激怒した父によって勘当される。公頼はもともと政宗の家臣であり、本家側の人間であった。そのためか、事あるごと様々なことに口を挟んだため、秀宗は疎ましく感じていたとされる。さらに翌元和7年(1621年)、怒りの収まらない政宗は老中土井利勝に対して宇和島藩の返上を申し入れた(和霊騒動)。結局、利勝のとりなしで政宗は申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会し、その場で秀宗は、長男であるにもかかわらず徳川時代に入って仙台藩の家督を嗣げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから、政宗に対しかなりの恨みを持っていることを話した。政宗もその秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれた。この件をきっかけとして親子の関係は良好になったとされる。 その後、秀宗は藩政に注力した。翌年の元和8年(1622年)12月、遠江守を叙任する。寛永3年(1626年)8月19日には従四位下に昇位する。
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