江戸時代と宇和島藩主とは? わかりやすく解説

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江戸時代と宇和島藩主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 09:05 UTC 版)

伊達秀宗」の記事における「江戸時代と宇和島藩主」の解説

慶長7年1602年9月徳川家康拝謁し徳川氏人質として江戸向かった。だが正室である愛姫(このとき、数え年政宗36歳愛姫35歳となっており、当時としてはかなりの高齢出産であった)との間に虎菊丸(のちの伊達忠宗)が生まれ夭逝せずに無事に育ったため、慶長8年1603年1月政宗は虎菊丸家康拝謁させ、秀宗の立場微妙になりだした。慶長14年1609年)、秀宗は家康命令徳川四天王重臣井伊直政の娘の亀を正室として、徳川陣営取り込まれる事になる。だが弟の虎菊丸慶長16年1611年12月江戸城元服し将軍秀忠から一字を賜って忠宗と名乗った事により、事実上秀宗は伊達家家督相続者から除外されることになった。この事情に関して政宗長男であったが、生母飯坂氏が側室だったために本家家督嗣ぐことができなかったとされてきたがこれは誤りと言われており、「秀」の通字受けて秀吉・秀頼の側に仕え一時豊臣姓まで賜った秀宗が徳川氏の世では仙台藩主としてふさわしくないという理由実際に除外されたとされている。 このため別家興すことを父・政宗考える。慶長19年1614年)の大坂冬の陣には父と共に陣し初陣を飾る戦後大御所徳川家康から参陣の功として政宗与えられ伊予宇和島10万石を別家として嗣ぎ、同年12月25日にその初代藩主となった家臣団多く政宗伊達家中から選んだ者で、秀宗入部の際、57騎馬団のほか足軽小者あわせ約1200名がいたとされる重臣政宗意を受けて秀宗を輔弼した。また、藩政整備のための初期資金として仙台藩から6万両借財をした。 元和6年1620年)、家老山家公頼一族皆殺しにあう。後年作られ伝説では桜田玄蕃一派襲撃したと言われるが、玄蕃本人当日大阪におり、実際には「御成敗であった。 秀宗はこれを幕府政宗報告しなかったことから、激怒した父によって勘当される。公頼はもともと政宗家臣であり、本家側の人間であった。そのためか、事あるごと様々なことに口を挟んだため、秀宗は疎ましく感じていたとされる。さらに翌元和7年1621年)、怒り収まらない政宗老中土井利勝に対して宇和島藩返上申し入れた和霊騒動)。結局、利勝のとりなし政宗申し入れ取り下げ政宗と秀宗は面会しその場で秀宗は、長男であるにもかかわらず徳川時代入って仙台藩家督を嗣げなかったことや、長期わたって人質生活を送らされていたことから、政宗対しかなりの恨み持っていることを話した政宗もその秀宗の気持ち理解し勘当解かれた。この件をきっかけとして親子の関係は良好になったとされるその後、秀宗は藩政注力した。翌年元和8年1622年12月遠江守叙任する。寛永3年1626年8月19日には従四位下に昇位する

※この「江戸時代と宇和島藩主」の解説は、「伊達秀宗」の解説の一部です。
「江戸時代と宇和島藩主」を含む「伊達秀宗」の記事については、「伊達秀宗」の概要を参照ください。

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