江戸時代における一茶の著作の出版
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「小林一茶」の記事における「江戸時代における一茶の著作の出版」の解説
「一茶発句集」の出版は、門人たちによる亡き師匠に対する顕彰、追善の意味合いが強かったが、嘉永元年(1848年)、一茶のことを私淑していた今井墨芳の手によって、長野の書肆向栄堂から嘉永版の「一茶発句集」が出版された。当時、没後20年以上も経ってから句集が発行されるのは異例なことであり、一茶に根強い人気があったことがわかる。この嘉永版「一茶発句集」は、その体裁から江戸の版元に依頼して印刷、製本したものと考えられている。また文政12年(1829年)刊行の「一茶発句集」との大きな違いは、今度は営利目的の出版でもあった。嘉永版「一茶発句集」は信濃ばかりではなく江戸でも販売を行い、数種類の版が確認されていることからかなり売れたものと考えられる。 そして嘉永5年(1852年)には「おらが春」が出版される。出版したのは中野の白井一之。白井は一茶の門人、山岸梅塵が所有していた一茶筆の「おらが春」を譲り受け、出版に踏み切った。ところで一茶筆の原本には題名が付いていなかったが、白井が出版する際に、巻頭文に続く句である 目出度さもちう位也おらが春 から、「おらが春」と命名した。 この白井一芳の「おらが春」の出版は、あくまで私家版であって長野で少部数が流通したに留まったが、初版の「おらが春」には体裁が違うものが確認されており、これは売れ行きが良かったために増刷されたものと考えられている。 「おらが春」初版本の跋文は、俳人の惺庵西馬が執筆した。西馬は (一茶の)発句のをかしみは、人々の口碑に残りて世の語り草となるといへどもただに俳諧の皮肉にして、此坊(一茶)の本旨にはあらざるべし。……ざれ言に淋しみを含み、可笑(おかしま)にあはれを尽くして、人情、世態、無常、観想残すところ無し。 と、一茶の作品の本質を的確に表現した。 嘉永7年(1854年)、初版本の版木をそのまま用い、江戸の神田新石町の書肆、須原屋源助が「おらが春」を再刊する。ただし当時は「おらが春」の知名度がほぼ皆無であったため、俳句界では名が通っていた一茶の名を用い、「一茶翁俳諧文集」と題して売り出した。須原屋源助は俳書の専門出版業者では無かったが、売れ行きを見込んで出版に踏み切ったものと考えられている。なお、須原屋源助に「おらが春」を紹介したのは嘉永版「一茶発句集」を出版を手掛けた今井墨芳であったと見られている。 明治中期までの一茶像や評価は、江戸時代に出版された文政版、嘉永版の「一茶発句集」、「おらが春」によって形作られた。中でも一茶の俳文の代表作である「おらが春」は、一茶の名を全国に広める上で大きな役割を果たした。なお、白井一之による「おらが春」の版木は、大正12年(1923年)、関東大震災による火災で焼失するまで発行者、出版社を変えつつ使用され続けた。 なお、没後も一茶の評価は俳句愛好者の中では高いものがあった。それは一茶の書が高値で取引されていたことからも明らかである。没後、一茶は決して埋もれてしまったわけではなく、化政期を代表する俳人としての不動の評価があった。この一茶の高い評価の背景には、江戸期に刊行された文政版、嘉永版の「一茶発句集」、「おらが春」が影響していた。
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