江戸時代における影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
「文禄・慶長の役」の記事における「江戸時代における影響」の解説
豊臣政権を倒した徳川氏の江戸幕府治下における朝鮮出兵に対する見方は林羅山の『豊臣秀吉譜』が鶴松の死による狂気にみたように否定的な見方が強かったが、一方で朝鮮通信使を江戸幕府への「朝貢使」と位置付けて、朝鮮出兵をその前提として解釈する流れも存在した。堀正意の『朝鮮征伐記』や山鹿素行の『武家事紀』はこの流れを汲んでいる。また、国学における本居宣長の『馭戒慨言』も同じ路線に立つが、こうした主張は「日本の武威」を強調するとともに、江戸幕府による朝鮮出兵の後処理を単なる平和回復ではなく、幕府によって朝鮮の再服属化と三韓征伐の約束である朝貢が回復されたとする認識によるものである。なお、本居は出兵の失敗の原因として秀吉の敬神の欠如と朝鮮での無益な民衆殺害が原因であったとしている。 18世紀末期から19世紀初頭にかけてロシアの南下が警戒され始めると、朝鮮が朝鮮出兵の報復のためにロシアと組んで日本を攻撃するのではという噂が流れ、文化露寇を扱った南豊亭永助の『北海異談』には朝鮮出兵を対ロシア戦の参考にすべき先例として取り上げるだけではなくロシアと朝鮮による挟撃を警戒する記述が記されたり、『絵本太閤記』・『絵本朝鮮軍記』など朝鮮出兵に関する本が出されたりした。 天保年間には川口長孺によって『征韓偉略』が著される。川口は中国や朝鮮の史料も参照しながら事実関係を考証しているが、一方で「日本の武威」を強調している。 三韓征伐と朝鮮通信使を結びつけた朝鮮を朝貢国とする認識や朝鮮出兵が日本の武威を示したとする認識は、19世紀の欧米の軍事的圧力の中で秀吉による朝鮮出兵に対する評価を肯定化させ、幕末に至って征韓論へと転換する要因となる。 また、朝鮮出兵が比較的新しい歴史的事件として、あるいは『懲毖録』・『征韓偉略』などを読んだ読後の感想として文人たちの間で朝鮮出兵を題材にした多くの漢詩が詠まれ、代表的なものに荻生徂徠の「寄題豊王旧宅」や菅茶山の「寄竹山先生」(中井竹山の学識を秀吉の武力よりも上と評した際に朝鮮出兵の失敗を引き合いに出す)、伊藤東涯の「復軒詞宗従予借懲毖録。頃寄瑤音、卒和謝之」、大槻磐渓の「読征韓紀」などがあげられる。
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