江戸時代のロッジ設立
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「日本のフリーメイソンリー」の記事における「江戸時代のロッジ設立」の解説
フリーメイソンが最初に日本に訪れたのは江戸幕府による鎖国政策の時代であり、1779年に長崎港出島のオランダ商館に商館長として駐在したオランダ東インド会社のイサーク・ティチングが初訪日のフリーメイソンであると考えられている。ティチングがフリーメイソンリーに入会したのは1772年、オランダ領東インドバタヴィア(インドネシアジャカルタ)でのことである。日本国内にメイソンリーのロッジ設立が始まったのはそれよりさらに後になってからである。 江戸末期の1853年、開国(開港)を日本に迫ったマシュー・ペリーはメイソンであった。ペリーは1819年にニューヨークのホーランド・ロッジでメイソンリーに加入した。ペリーを日本に遣わせたミラード・フィルモア米大統領は、フリーメイソンの集まりに参加した記録はあるが、フリーメイソンではない。 1860年2月26日(安政7年2月5日)、横浜で攘夷派によってオランダ人船長W・デ・フォスと、商人N・デッケルが暗殺された(オランダ人船長殺害事件)。外国人達は攘夷派への示威行動の意味もあり、できるだけ盛大に二人の葬儀を行おうとした。この時、殺された二人はフリーメイソンであると言われており、外国人のメイソン達は、儀式用の正装であるエプロン着用で葬儀に臨んだ。これが日本におけるフリーメイソンの最初の記録という(ただし、二人が会員であった証拠は見つかっていない)。二人は横浜の外国人墓地に埋葬され、その墓は現存している。 1864年(元治元年)、イギリスは居留民保護のため英国第20(イースト・デヴォンシャー)歩兵連隊(後のランカシャー・フュージリアーズ)を香港から横浜に移動させた。同隊の軍隊ロッジ「スフィンクス」は、隊員のためのロッジであるが、在日イギリス人のためのロッジとしても機能し、また恒久的な民間ロッジ設立のための手助けをした。1865年1月、スフィンクス・ロッジは横浜在住のフリーメイソンから家を借り、これをロッジとして日本初の集会を行った(現・港の見える丘公園内)。スフィンクス・ロッジは1866年(慶応2年)3月に離日したが、歌手ジョン・レディ・ブラックら横浜在住の外国人によって、改めて民間人のための「横浜ロッジ No.1092」設立が申請され、慶応元年12月14日(1866年1月30日)にイングランド・グランド・ロッジの承認を受け、6月26日、「横浜ロッジ」が恒久的な民間ロッジとして設けられた。このロッジは度々移転しているものの現存しており、日本国内最古の現役ロッジといえる。1869年には横浜に2つめのロッジとして「オテントウサマロッジ No. 1263」が設立された。続いて登場したのが1870年(明治3年)発足のロッジ・兵庫・大阪(神戸)である。第二次大戦前までに国内には8つのロッジが設立され、そのうちの半分が、横浜におかれた。「東方の星(STAR IN THE EAST) No. 640」、「東洋の印章ロッジ(Orient Mark Lodge) No. 304」「横浜支部(Yokohama Chapter)」と「オテントウサマロッジ No. 1263」の4つは、共同所有の形で山下町の一等地に集会所「メソニックホール(Masonic Hall)」を建設した。 幕末の長崎に滞在して薩摩藩などに武器を売っていたとされるスコットランド系英国人商人トーマス・ブレーク・グラバーがフリーメイソンだったとする主張もあるが、彼はフリーメイソンではない。彼の地元にあるスコットランド・アバディーン・ロッジとの関連も記録からは何も発見されていない。長崎にスコットランド系のロッジがあるが、その創設はグラバーが活躍していた時代から20年も後の話であり、グラバーは無関係である。グラバーがフリーメイソンだという誤解が広まったのは旧グラバー邸近くにメイソンの石柱があることを根拠にして空想を広げたことによると思われるが、このメイソンの石柱は戦後になって長崎市が観光目的で別の場所から移築してきたものにすぎない。したがって「グラバー=メイスン」説には何ら根拠はない。またグラバーは薩摩藩など討幕派の藩だけではなく、幕府や佐幕派の藩にも武器・船舶を売っていたと見られる。
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