江戸時代の事例(おぼ抱き観音伝説)
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「産女」の記事における「江戸時代の事例(おぼ抱き観音伝説)」の解説
時は元禄時代のはじめ、会津は高田の袖山(現・会津美里町旭)に五代目馬場久左衛門という信心深い人がおり、ある時、五穀豊穣と子孫繁栄を福満虚空蔵尊に発願し、柳津町円蔵寺に丑の刻参り(当時は満願成就のため)をしていた。さて満願をむかえるその夜は羽織を着て新しい草鞋と身支度も万全、いつものように5里(約20km)の旧柳津街道(田澤通り)を進んだが、最後の早坂峠付近にさしかかると、何故かにわかに周辺がぼーっと明るくなり赤子を抱いた一人の女に会う。なにせ平地2里、山道3里の道中で、ましてやこの刻(午前2時ころ)、透き通るような白い顔に乱し髪、さては産女(妖女)かと息を呑んだが、女が言うには「これ旅の方、すまないが、わたしが髪を結う間、この子を抱いていてくださらんか」とのこと。久左衛門は、赤子を泣かせたら命がないことを悟ったが、古老から聞いていたことが頭に浮かんで機転をきかし、赤子を外向きに抱きながら、自分の羽織の紐で暫しあやしていたという。一刻一刻が非常に長く感じたが、やがて東の空が白みはじめるころ、やっと女の髪結いが終わり「大変お世話になりました」と赤子を受け取ると、ひきかえに金の重ね餅を手渡してどこかに消えたという。その後も久左衛門の家では良いことのみが続いて、金銀があふれるように大分限者(長者)になり、のちにこの早坂峠(現柳津町森林公園)におぼ抱き観音をまつったのである。なお、円蔵寺のおぼだき観音伝説にも詳しい。
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