江戸時代の佐賀藩とは? わかりやすく解説

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江戸時代の佐賀藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 05:22 UTC 版)

佐賀藩」の記事における「江戸時代の佐賀藩」の解説

佐賀藩357千石大封ありながらその実情は、3支藩(蓮池小城鹿島)・鍋島4庶流家(白石川久保村田久保田)と龍造寺4分家多久武雄諫早須古)の各自治領があったため、藩主実質知行高は6万石程度であった龍造寺家支配体制引き継いだため、龍造寺一族所領そのまま安堵する必要があったのであるこのため幕府への普請役への出費などを理由に、家臣領地3割を返上させる「三部上地」を2度慶長16年1611年)、元和7年1621年))実施し直轄領拡大行っている。1度目全家臣、2度目龍造寺4分家対象となったまた、龍造寺4分家差し出させた知行支藩割り当てたり龍造寺4分家養子送り込むなどして、徐々に全体鍋島化を図っていった。 当初は、鍋島家一族鍋島生三鍋島家外戚家門である石井家鍋島石井茂里らが藩政主導していたが、のちに多久諫早武雄須古龍造寺4家が藩政実権握ってゆく。これは、藩政龍造寺4家に担当させる一方財政面責任取らせようとした「勝茂の真に巧妙な統治策」の結果であるという。寛永11年1634年)、高房遺児伯庵幕府龍造寺家再興訴えその後もたびたび訴訟起こしたが、佐賀藩大勢鍋島家支配支持しており、幕府伯庵訴え取り上げことはなかった。 2代・光茂に仕えた山本常朝口述著した武士道とは死ぬことと見つけたり」で知られる葉隠聞書』は、後の佐賀藩精神的支柱となった佐賀藩長崎程近いため、幕府より福岡藩1年交代での警備を命ぜられていたが、その負担代々財政重くのしかかった文化5年1808年)、ナポレオン戦争により、イギリスフリゲート艦長崎侵入してオランダ商館引渡し要求するフェートン号事件起こったが、佐賀藩無断警備人員減らしていたため必要な対策がとれず、その不手際幕府から叱責される。また1828年シーボルト台風死者1万人弱の被害出し財政破綻寸前陥るなど、藩をとりまく状況悪化した10代藩主・直正(閑叟)以降藩政改革西洋技術摂取努めた。特に大がかりリストラ行い役人5分の1削減農民保護育成陶器石炭などの産業育成交易に力を注ぎ、藩財政潤った

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