干拓の歴史
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日本最古の干拓は現在の佐賀県で行われた。推古天皇15年(605年)に大連秦河勝がおこなった九十九万代の干拓である。下って鎌倉時代末期には、佐賀市の南、熊本県天明村、旧銭塘村で干拓が行われた文献が残されている。元寇直後から干拓が進められるようになるが、元寇後の食糧不足や参戦した武士への恩賞不足のため、干拓に目が向いたものと推測されている。 中世より人間の手によって少しずつ干拓が進められたが、江戸時代に入ると米の生産拡大を目的とした干拓が次々と行われるようになり、海岸線の後退は加速した。熊本藩の干拓事業は、藩費のほかに藩主の私費、家老の出費、手永(村より大きい単位)の共同事業としておこなう大規模なものであった。江戸時代の佐賀藩では500箇所、約6300町の水田が作られたが、そのほとんどは藩営事業としてではなく、農民の手によって進められたもので、個々の干拓地は小規模なものであった。長崎県の諫早平野は鎌倉末期以降干拓によって造成されたものであるが、江戸時代には諫早領主(佐賀藩重臣)諫早家による干拓も行われた。 近代以後、公営の干拓事業や、国による干拓事業が続いた。 1989年(平成元年)からは諫早湾において国営諫早湾干拓事業が開始され、1997年(平成9年)に諫早湾奥部を一気に締め切る工事が行われた。干拓によって有明海全体で陸地化された面積は、昭和60年代の時点で260km2を超えており、諫早湾干拓によってさらに約9km2拡大した。
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干拓の歴史
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江戸時代中期から、細川池(下池)と湯山池(上池)の干拓が始まった。江川、箭渓川、塩見川が集まるこの水域は勾配が極端に小さく、海水が逆流するほどだった。そのうえ冬になると偏西風に押し戻された砂によって河口が閉塞しやすく、洪水が絶えない地域だった。
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