干拓後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:18 UTC 版)
菱池干拓後の農地(左・右) 1903年(明治36年)、神野金之助は碧海郡新川町の内藤弥作に28,000円で土地を売却し、新田経営から手を引いた。一反当り200円くらいであったと、土地の人はいう。神野が新田経営から手を引いた大きな理由として、新田所有者と相見村・広田村民との確執があった。 太田謐三郎を代表とした開墾地組合會は、相見村や広田村民との論争に粘り強く対応し、1932年(昭和7年)頃に解決させた。 こうした経緯を受けて、新田開墾の記念に菱池湖畔に建てられた池神社には、石碑が2つ建立されている。明治期の神野金之助の功績を讃える石碑と、1932年(昭和7年)に、地元の人たちによる開墾地運営の功績を称える碑の2つである。 近年、広田川流域は市街地化がすすみ、こうした土地の変化により川の水量が増加した。水害の危険の高まりが指摘され、これに伴い、遊水地の建設が行われている。菱池地内では、2000年(平成12年)9月の東海豪雨での氾濫浸水につづき、2008年(平成20年)8月末には観測史上最大の雨量447.5mmを記録した豪雨による氾濫で広田川の堤が一部決壊したことにより、幸田町の広範囲で浸水被害が生じた。菱池一帯の水田はほとんどすべて水没し、図らずも明治時代に干拓によって消えた池が出現した様相となった。
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