干拓以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:17 UTC 版)
干拓事業は、国営・府営・組合営の分担により行われた。 国営干拓事業は1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われ、巨椋池は干拓され、農地になった。干拓後の農地における用水利用を考慮し、池の底部を小倉堤や池に点在した島で埋めた程度で、ほとんどがポンプを用いた排水によって干拓された。 なお、干拓前の巨椋池は東西4キロメートル、南北3キロメートル、周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートル(約800ヘクタール)、平均水深は90センチメートルであった。当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった。 干拓によって、634ヘクタールの干拓田ができ、あわせて周辺の1,260ヘクタールの既存耕地の改良が行われた。干拓地の農地は近鉄京都線(当時は奈良電気鉄道)を基準として区割りされたことから、周囲の条里制の区割りとは異なっている。 1953年の昭和28年台風第13号の大洪水で宇治川の堤防が決壊した。これにより干拓前の巨椋池全域を含む2,880ヘクタールが浸水し、干拓地に巨椋池が「復活」する災害が起こった。これを契機に天ヶ瀬ダムが造られ、1964年(昭和39年)に完成した。
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