観測史
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「スイフト・タットル彗星」の記事における「観測史」の解説
スイフト・タットル彗星は紀元前574年、紀元前447年、紀元前紀元前322年にも肉眼で見えたと考えられているが、始皇帝の焚書坑儒などもあるためか記録は残っていない。 初めて記録上に見られるのは漢書で、地節1年(紀元前69年)に客星が現れたと書かれている。また、後漢書には中平5年(188年)に客星が現れたとする記述があり、これも今日スイフト・タットル彗星として知られる彗星に該当する。このときの見かけの等級は0.1等に及んだと考えられている。 それからこの彗星は1500年以上もの間観測されず、1737年にようやくケーグラー(中国語: 戴進賢)によって観測された。しかし彼はスイフト・タットル彗星であると分かっていたわけではなく、白い奇妙な星であると記述した。1970年代に天文学者ブライアン・マースデンによって同一である可能性が論じられた。 1862年には冒頭に述べたとおりルイス・スウィフトにより7月16日に、ホレース・タットルにより7月19日に発見された。公転周期は120年前後と予測され、1971年にはマースデンらも約120年と予測した。しかし、1737年との関連性にも注目し、1981年に回帰するという説と1992年に回帰するという2つの説を提唱した。 そして1992年9月26日、日本のコメットハンター、木内鶴彦が11.5等のスイフト・タットル彗星を再発見した。さらに10月に入ると8.5等に及び、11月下旬には5等かつ尾の長さが6.7 °になった。自転周期も2.9日と求められた。
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観測史
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1654年以前にジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナが発見していたが、彼の発見は世に知られず、1764年8月25日にシャルル・メシエが独立発見している。メシエは「アンドロメダ座γ星とほぼ平行よりやや下にある小さな星からできた散開星団。3インチの普通の望遠鏡で星が識別できる」と記している。
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観測史
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1780年の9月末にピエール・メシャンによって発見された。メシャンは「この星雲には星がない。かなり大きく非常に微か。みるのは酷く難しい。よく晴れた霜を置くような夜にははっきりするだろう」と記した。シャルル・メシエは「うお座η星に近い星のない星雲で、1780年9月下旬にメシャンが見たとおりである」とした。ジョン・ハーシェルは1864年のジェネラルカタログに「球状星団で、微かで非常に大きい。中央は周辺から急に明るくなっている。部分的に分解される」とした。1848年にロス卿は「渦状か?渦状という自信がある。中心部は星からできている。たやすく見え、星雲を通じて星がある」と記した。ロス卿により渦巻構造が確認された14の銀河の一つである。
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観測史
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1779年3月23日にイギリスのエドワード・ピゴットによって発見された。また、そのわずか12日後の同年4月4日には、ドイツのヨハン・ボーデによって独立に発見されている。翌年の1780年3月1日にはシャルル・メシエも独立発見した。しかしながら、ピゴットの発見は1781年1月11日にロンドンの王立協会で読まれたときに公表されたに過ぎず、これはボーデの発見が1779年に、メシエの発見が1780年の晩夏に発表された後のことであった。結局、ピゴットの発見は多かれ少なかれ無視され、2002年4月になってようやくブリン・ジョーンズによって見出された。 暗黒帯は、1785年と1789年の2度、ウィリアム・ハーシェルによって確認され、「黒眼」にたとえられている。
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観測史
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テンペル第1彗星は1867年4月3日にエルンスト・テンペルによって発見された。発見当時の公転周期は5.68年であり、その後1873年、1879年と観測されていった。 テンペル第1彗星は木星に接近して摂動の影響を受けやすい軌道にあるため公転周期は変動する。1881年には木星に接近したため軌道に変化が起こり、公転周期は6.5年になったうえ、近日点距離も長くなってしまったため1898年と1905年にテンペル第1彗星の写真を撮影する計画があったが失敗に終わった。 テンペル第1彗星は観測されずに13回太陽の周囲を公転し、1967年になってやっと再発見された。まず、ブライアン・マースデンが木星の摂動も考慮したうえでの軌道を正確に計算した。彼は1941年と1953年にテンペル第1彗星が木星に接近したことにより近日点距離は縮まり、公転周期は発見当初よりも短いことに気付いた。これらの接近でテンペル彗星と木星は1:2で軌道共鳴するようになった。1967年の回帰は観測には不向きな状況だったがエリザベス・レーマーは写真の撮影に成功した。最初は写真からテンペル第1彗星を見つけることができなかったが、1868年後半に再度確認したところ、1967年6月8日の写真に18等級で映っていることが分かった。ただし、このときの回帰では1回しか撮影できなかったため軌道の計算はできず、次の回帰を待つほかなかった。 1972年の回帰になると1月11日にはレーマーとL. M. Vaughnはスチュワード天文台でテンペル第1彗星の観測に成功した。見かけの等級は5月後半には11等級にまでなり、7月10日まで観測が続けられた。この回帰以来、周期5.5年で回帰のたびに観測されている。
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観測史
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1746年にジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾーによって発見されたが、彼の発見はあまり世に知られなかった。 メシエは「星を含まない星の筋で、長さは5'〜6'。紡錘形をしていてアンドロメダのベルトにあるものに似ているが、非常に淡い」と記している。ウィリアム・ハーシェルは「壮大で明るくて非常に大きく、たいへん不規則な形をしており、『2』の字のように曲がっている」と記している。オメガの名前は、ルイス・スウィフトがギリシア文字のオメガに似たスケッチを書いたことに由来する。白鳥にたとえたのはジョージ・チェンバーで棒状の長いガスの部分を白鳥の胴体とみなしている。カミーユ・フラマリオンはこの長く伸びた12光年にわたる構造を「風によって気ままにからまった煙の流れ」にたとえている。 2004年にはヨーロッパ南天天文台などの観測により、オメガ星雲中の若い大質量星の周りに、直径が2万天文単位のこれまでで最大級の降着円盤が発見されている。
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観測史
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1745年から46年にかけて、ジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾーによって発見された。1772年から79年にかけて、ヨハン・ゴットフリード・ケーラー(英語版)が独立して発見し「非常に青白い星雲状の光斑」としている。ジョン・ハーシェルは「たいへん大きく、星数が多い。星の光度は11~16等」と記している。写真観測でロベールは「星が曲がりくねってつらなり、渦状星雲に似ている。周囲には17等級以下の星が曲線をつづる様子は渦状運動によって出来たのではないかと思われる」と記している。
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観測史
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1745年から46年にかけてジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾーが発見した。シェゾーは「ふたごの北の足の上にある星団」と記録を残している。また、1750年以前にジョン・ベヴィスが独立して発見している。1764年にシャルル・メシエは「カストールの左足にある非常に小さな星の集団」と記している。
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観測史
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ジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾーが1746年に発見し、1764年にシャルル・メシエが最初のカタログに記載している。シェゾーは「アンタレスに近くこれに先行する。白く丸く小さい。以前に発見されていないと思う」とした。1751~1752年にラカイユはケープタウンで見て、「微かな彗星の小さな核のようだ」とした。1764年メシエは「非常に小さな星から成る星団。機械が悪いと星雲状…」とした。1783年ウィリアム・ハーシェルは10フィートの反射鏡で初めて星に分けて見た。彼は200個程度の星を認めており、また南北を走る星の群れを「かなり明るい8ないし10個の星のなす尾根」と表現している。スミスはこの星の群れを「中心を走るまばゆい光」と表現している。猫の目を連想する人もいる。 アンタレスの西にあり、小型望遠鏡でも比較的、観察が行いやすい。球状星団としてはまばらである。空の条件が良ければ肉眼で天の川の中に見ることができるくらい明るい球状星団である。ただ、同じ球状星団のM2やM3よりも明るいにもかかわらず、1等星のアンタレスが西に1.5°にあるため、それらより見えにくい。球状星団としてはまばらで、黄色みがかって見えるのが特徴である。丸く対称な形をしているにもかかわらず、1ダースほどの10~12等の星の群れが北から南に走っている。これがハーシェルの言う「尾根」である。口径20cm程度の望遠鏡で中心部分の星も見えはじめるが、空の状態によって見え方が変わる星団だとも言われている。
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観測史
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1745年にジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾーによって星団が発見され、1764年にシャルル・メシエが背景の星雲を発見した。しかし、メシエは同時代の観測者と比較して貧弱な機材しか持っておらず、M15 などのように発見者が星団に分離できた場合でもメシエは星団を分離できず星雲状で見ている場合が多々ある。
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観測史
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1773年8月10日にシャルル・メシエが発見した。メシエとは別に、カロライン・ハーシェルも1783年8月27日に独立発見している。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 04:10 UTC 版)
1654年以前にジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナが発見しているが、1984年までその業績は知られていなかった。 シャルル・メシエが1771年2月19日に独立発見し、隣のM46よりも明るい星団として記録したが、メシエはM47の座標を計算した際に符号を誤るというミスを犯した。そのため、1959年に T.F. Morris がその誤りを正すまで失われた天体であった。M47に関するメシエのミスについては、「1934年にオズワルド・トーマスにより、メシエが位置測定の時に+と-の記号を取り違えて計算したことが確認された。」とする説もあるが、これはM48と混同したものであるとされる。 メシエがミスをした結果、ウィリアム・ハーシェルが1785年2月4日に独立して発見し、H VIII.38 という符号を付けている。なお、メシエのミスにもかかわらず、カロライン・ハーシェルは1783年までに少なくとも2回M47を観測し、M47と認識している。
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観測史
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1780年3月1日にM65と同時にシャルル・メシエによって発見された。メシエは「たいへん微かでM65に極めて近い。二つとも同じ視野に見える。1773年11月1日から2日にかけてこの間を通った彗星の光のためにこれらを見逃したに違いない」としている。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「明るい核のある星雲で北西から南東方向に伸びている。M65に先行する」とした。ロベールは「はっきりした星状の核を持つ渦状。極の方は変動があり、そこで星のような12個の星雲状の凝縮した箇所がある」とした。クラークは「入り組んだ包みが並び、その一部はちょうど近日点に近いまるい彗星の頭から飛び出した放射線状のベールにやや似た核でとりかこまれている」とした。 M66では、SN 1973R、SN 1989B、SN 1997bs、SN 2009hd の4つの超新星が観測されている。
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観測史
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アケルナルは、現在1等星とされる21個の恒星のうち、古代ギリシャ人に知られていなかった唯一の星であり、西洋の観測記録に最後に登場した1等星である。 地球の歳差運動により、紀元前3400年頃のアケルナルは赤緯-82.60度と天の南極の近くにあったとされる。したがって、古代エジプト人は、その存在を知らなかった。西暦100年でも、赤緯は-67度で、アレクサンドリアにいたクラウディオス・プトレマイオスもその存在を知らなかった。一方、エリダヌス座θ星は、クレタ島の北側で観測出来た。よって、プトレマイオスはエリダヌス座の南端をθ星としていた。アケルナルが、アレクサンドリアで観測出来るようになったのは、1600年頃であった。 アケルナルを記載した最初の星表は、オランダの航海者ペーテル・ケイセルがインド洋を航海した際に遺した記録を参考にヨハン・バイエルが作成したウラノメトリアであった。 2000年3月までは、アケルナルとフォーマルハウトが共に他の1等星から天球上で最も離れた位置にあった。それ以降は、さそり座のアンタレスが他の1等星から最も離れた位置にある。ただし、アンタレスを含むさそり座には多くの2等星があるが、アケルナルとフォーマルハウトの周囲には明るく見える恒星がない。 アケルナルはその後、歳差運動により数千年かけて北上しており、8,000年から11,000年後には、其の最北点に達し、ドイツやイングランド南部付近にも見えるようになるといわれている。因みに今のアケルナルは九州や四国以南でなければ見えない。YouTubeのビデオより、大分県で観測されたことがある。台湾などのところではアケルナルは5度位あるので、雲と高い建物がなければ都心でも余裕に見える。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/31 08:52 UTC 版)
1781年にフランスの天文学者シャルル・メシエが発見した。メシエは「星のない星雲。中心部が明るく、まるく小さな彗星の核のよう。星雲状の物質にかこまれている」と記した。ウィリアム・ハーシェルは「M80としてよく知られているが、私が記憶しているもののうちでは、最も密集したもののひとつである」とした。ジョン・ハーシェルは「球状星団でまるく中心がよく輝いて周囲から急に明るくなっている。星の光度は14等でみなよく分かれる」と記した。 1860年5月21日に、星団の中央に7等の新星が出現した。これはベルリンのアルトゥル・アウヴェルスによって発見され、さそり座T星と名付けられた。1854年にはこの近くに、さそり座R星、さそり座S星といった変光星がフランスの天文学者ジャン・シャコルナクによって発見されている。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 09:31 UTC 版)
1780年9月5日にピエール・メシャンによって発見された。「星を含まない。小さくて微か」と記している。同年シャルル・メシエは、「アンドロメダ右足の星雲は1780年9月5日メシャンが観測している。彼は色消し望遠鏡で探し、星雲状物質をふくむ小さな星団にみえた」とした。ウィリアム・ハーシェルは「分解されない二重星雲」として、これを2つの天体と認識したため、NGCナンバーが2つつくことになった。ウェッブは「青白い青雲で二重。M27の奇妙なミニチュア」とした。ロス卿は「渦状。連続した隆起。刈り入れ用の鎌のよう」とした。フェーレンベルクは「大口径での写真ではコルク栓のようだ。NGCカタログでどうして2つに分かれているか分からない」とした。
※この「観測史」の解説は、「M76 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/11 08:24 UTC 版)
1771年2月19日にフランスの天文学者シャルル・メシエが発見した。メシエは「大犬の頭と一角獣の見えない足の間にある、非常に小さな星の集まり。良い反射望遠鏡でないと識別できない。わずか星雲状のものをふくむ」と記した。
※この「観測史」の解説は、「M46 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 06:49 UTC 版)
最初に検出された高速電波バーストである FRB 010724、通称「ロリマー・バースト」は、2001年7月24日にパークス天文台によって記録されたアーカイブデータの中からダンカン・ロリマーとデイビッド・ナルケヴィッチによって2006年に検出された。発見者の名前からロリマー・バースト (Lorimer Burst) とも呼ばれる。これ以降も、多くの高速電波バーストが過去に記録されたデータの中から発見されている。 2013年、4つの高速電波バーストが発見され、いずれも銀河系外の天体由来である可能性が示唆された。2016年には、2012年に検出された高速電波バースト FRB 121102 が不規則に反復してバーストを起こすことが確認された。FRB 121102は、約30億光年の距離にある銀河にあることが確認されている。2017年に検出された高速電波バースト FRB 171209 は、2011年に検出されたガンマ線バースト GRB 110715A と関連があるとする説が出されている。 2020年4月28日、こぎつね座の軟ガンマ線リピーター SGR1935+2154と同じ方向から、150万ジャンスキー/ミリ秒 (Jy/ms) を超えるフルエンスを持つミリ秒単位の時間スケールの高速電波バースト (FRB 200428) が検出された。前日の4月27日夜、このマグネターからのX線バーストがニール・ゲーレルス・スウィフトによって検出され、さらに数時間にわたってフェルミガンマ線宇宙望遠鏡や国際宇宙ステーションに設置された中性子星観測装置NICER(英語版)により、数回のX線バーストが検出されていた。このように高速電波バーストの他波長対応天体が観測されたのは今回が初めてである。また、この高速電波バーストの分散量度がかなり低かったことから、天の川銀河の中で発生したものと考えられた。既知の高速電波バーストに比べると、FRB 200428は本質的な明るさでは何千倍も劣っていたが、その近さから最も強力な高速電波バーストとなり、数千から数十万ジャンスキー (Jy) のピークフラックスに達し、同じ周波数ではカシオペヤ座Aやはくちょう座A(英語版)といった電波源と匹敵する明るさとなった。この高速電波バーストの観測結果から、依然としてその発生機構は未知のままではあるものの、少なくともマグネターが高速電波バーストの発生源の1つであることが確定した。
※この「観測史」の解説は、「高速電波バースト」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/10 09:38 UTC 版)
1779年5月5日にバルナバス・オリアニ(英語版)が彗星の観測中に発見した。オリアニは「非常に青白く彗星の核そっくりである」と記録を残している。同じ日にシャルル・メシエも観測していたが、メシエは当初彗星であると勘違いしていた。メシエは6日後の5月11日に彗星ではないことに気付き、「星雲。極めて微かなので識別困難」と記録した。も彗星検索中に発見している。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「大きな青白い星雲。極めて微光だが、メシエが3.5フィートの望遠鏡で同定したのは何とも驚きで、興奮さえする。私の器機では条件が良いときのみ中央が輝くのが見えた。ウィリアム・ハーシェルの望遠鏡では核が2個あるのを見たが、間隔は90"で4個の微光星が後続する」とした。ロス卿は「2個の核があり、中央が明るく渦状。10'に他の星雲が北後続」とした。
※この「観測史」の解説は、「M61 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 15:45 UTC 版)
みずがめ座R星は、独リリエンタール(英語版)にあるヨハン・シュレーターの観測所で助手を務めたカール・ハーディングが、1810年に発見した。みずがめ座R星という名称は、変光星の命名方法において、みずがめ座で最初に確認された変光星であることを示す。 みずがめ座R星は、一見して1年3週間周期で6等から11等まで変光する、普通のミラ型変光星のように思われた。しかし、1919年10月、ウィルソン山天文台での分光観測によって、みずがめ座R星のスペクトルは、輝線も示すミラ型星のスペクトルだけではなく、星雲でみられる輝線が含まれることが明らかになった。更に、大型望遠鏡による分光観測が繰り返され、ミラ型星のスペクトルと星雲の輝線に加え、OB型星のような青い高温の連続光成分が含まれていることがわかってきた。このような、赤色巨星のスペクトルと高温ガスの輝線が同時に観測される天体は、共生星と呼ばれる。その後、変光そのものに関しても変光幅が突如小さくなる現象が確認され、ミラ型星以外に変光に寄与する成分があることがわかった。紫外線観測衛星による観測で、星雲成分と高温度星成分のスペクトルの詳しい性質がわかってくると、みずがめ座R星系には高密度の小さなガス集合体と白色矮星が存在し、連星系であると考えられるようになった。 一方、星周領域では、1921年11月にローウェル天文台で撮影された写真から、星雲状構造の存在が明らかになった。その後、ハッブルが星雲の膨張を検出し、バーデが時間をおいて撮影した写真の比較から、膨張していることを証明した。1980年代になると、可視光と電波で、星雲状構造の内側にジェットの存在が発見された。その後、20世紀前半にローウェル天文台で撮影されたみずがめ座R星の写真乾板にも、ジェット構造が写っていたことがわかった。
※この「観測史」の解説は、「みずがめ座R星」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/09 00:56 UTC 版)
1764年にフランスの天文学者シャルル・メシエが発見した。メシエは「星のない星雲。3.5フィートの望遠鏡でたやすく見ることができる」と記している。1784年ウィリアム・ハーシェルはM19を分離して見る。「すばらしい球状星団。非常に明るい」と記している。
※この「観測史」の解説は、「M19 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/09 00:32 UTC 版)
1746年にジャン・ドミニク・マラルディがド・シェゾー彗星(C/1746 P1)を観測中に発見した。M2 を発見した5日後であった。彼は「星雲状でかなり明るく大きな星がある」と記している。シャルル・メシエは1764年に「星のない星雲。まるく中心部が輝く」と記しており、高名なメシエの機材の方が貧弱であったことを示している。
※この「観測史」の解説は、「M15 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/19 02:32 UTC 版)
1783年5月6日のフランスのピエール・メシャンの手紙にこの天体を発見したことが記されている。M104はメシエカタログの初版の発行後に追加された最初の天体である。シャルル・メシエ自身は 1784年に自分のカタログに手書きでこの天体のことを「非常に淡い星雲である」と追記している。1784年5月9日にはイギリスのウィリアム・ハーシェルが独自に発見している。彼は「微かな拡散した楕円の光芒。角を分ける間隔があり星雲の大部分はその上方にあるのが明瞭である」として暗黒帯の存在を初めて記録した。 1912年にアメリカのヴェスト・スライファーが、M104の光が大きく赤方偏移していることを発見、この時の赤方偏移の量からM104は地球から約1,000km/sの速度で遠ざかっていることが明らかになった。この速度は銀河系の内部に属する他のどんな天体よりも速いものであった。この発見は、M104が銀河系内の星雲ではなく銀河系外の天体であること、また宇宙があらゆる方向に膨張していることを示す最初の手がかりとなった。
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観測史
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1777年にヨハン・ボーデによって発見された。ボーデは「ややまるく、青色光によって囲まれている」としている。1781年シャルル・メシエは「はっきりし、きれい。非常に明るい。1フィートの望遠鏡で楽に見える。星は含まない。中心部は明るく、大きな彗星の核に似ている。大きさ、明るさはM13にかなり似ている。径5'」とした。ジョン・ハーシェルは「球状星団で微星に分かれる」とした。スミスは「微星の集まる球状星団。大きく明るい。中心部は輝く。よい視相では外形は不規則。端のほうは流れている」とした。 マラスは中心部の星を口径10cmの望遠鏡の倍率214倍で見えたと報告した。通常はざらざらとした感じで見ることができる。口径20cmの高倍率で個々の星に分かれ、ややゆがんだ姿もわかるという。ただ気象条件に左右されやすく、ロス卿でさえ全部を星に分けて見ていない。ジョーンズは口径20cmの望遠鏡で全ての星を分離したと言い、やや東の方が平らで南北方向が僅かに長くなっているとしている。通常は口径30cmの望遠鏡で全ての星を分離できる。
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観測史
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1782年4月にピエール・メシャンが発見した。1784年に刊行されたメシエカタログの第3版には記載されていなかったが、1947年にヘレン・ソーヤー・ホッグによってM105、M106とともにメシエカタログに加えられた。 当初カタログに記載されなかったことからメシャンの発見は世に知られず、1793年5月12日にウィリアム・ハーシェルも独立で発見している。ハーシェルは「非常に美しく、星数が多く密集し、径5'~6'。中心部にむかって次第に星の密集度が高くなってくる。5個の明るい星がまわりにみえる」とした。
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観測史
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1764年6月20日にシャルル・メシエが発見した。メシエは「いて座の弓の端とへびつかい座の右足の間、へびつかい座65番星の近くにある。この星団の星は互いにかなり接近している。」と記している。
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観測史
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ヨハン・ボーデによると1779年までにヨハン・ゴットフリード・ケーラー(英語版)が発見したとされるが、ケーラーの使った機器では星団として認識できず、「かに座αに近い楕円形の星雲」と記している。1780年シャルル・メシエは「かに座の南の爪で星雲状のものを交えた星の群れ」と記している。1783年ウィリアム・ハーシェルは「星に分解。非常に密集したまことにきれいな星団で、どんな望遠鏡でもたやすく見える」とした。ジョン・ハーシェルは「顕著な目標。非常に明るくて大きく星数が多く、10~15等級」とした。カミーユ・フラマリオンは「とうもろこしの一束」と表現している。
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観測史
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1764年メシエが発見し、「天の川の中に、星雲状のひろがりがいくつかのパートにわかれ、さまざまな明るさの星が見られる」と記している。ジョン・ハーシェルは、この中のNGC 6603を見て、「きわめて星が多く、よく集中している」と説明し、以降の混乱のもととなった。ドライヤーはメシエがこの6603を見たかどうか疑わしいと言っている。ワレンクイストはカタログからこのスタークラウドは除外した。
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観測史
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1764年10月24日にシャルル・メシエが発見し「星雲状のものは何一つなく、1°ほどの範囲に広がっている」と記録を残している。 紀元前350年頃にアリストテレスによって彗星のような天体として発見されていたとする説がある。また、1750年頃にギヨーム・ル・ジャンティが発見したとする説もあるが、それを疑問視する説も強い。
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観測史
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1764年8月3日にシャルル・メシエによって発見された。メシエは「41番星に近い星雲で、3.5フィートの望遠鏡でどうにか見える」としている。1783年にウィリアム・ハーシェルは「2つの星の流れがあり、4~5個の星がその流れの中にあるが、おそらく星団に属しているのだろう」として、星雲ではなく星団として捉えた。
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観測史
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M96とともに、1781年3月20日にピエール・メシャンによって発見された。 シャルル・メシエは「53番星の上にある星のない星雲。微光」と記した。ジョン・ハーシェルは「明るく大きくまるい。中央に核があり、徐々に明るくなっている」とした。スミスは「視野のNfとSfの間にただ2個の星がある澄んだ白い色をした星雲。星雲はまるく明るく北よりも南の方がはっきりとしている」とした。ロス卿は「2個の楕円形。中心部はおそらく分解できる」とした。 2012年3月16日に、IIP型超新星「SN2012aw」が発見された。偶然、超新星が発生する直前のM95の写真が撮影されており、超新星の最初期の状態の観測が可能であった。
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観測史
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1781年にピエール・メシャンによって発見された。同年メシエは「星のない星雲。かみのけ座11番星と14番星の間で、おとめの耳に近い。非常に微かである」とした。スミスは「明るくやや大きな目。中心部が明るい」と記している。ダレストは「大きく明るくとにかく中心が著しい。他の星雲が後続する」としている。
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観測史
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1781年3月15日にピエール・メシャンによって発見された。M98、M99、M100はメシャンによって同時に発見されている。同年4月13日、シャルル・メシエは座標を計測し、彼のカタログの第3版を脱稿する直前にカタログに加えた。メシエは「星のない星雲で、青白くM98よりやや明るい。7等星と8等星の間にはさまれている」としている。ジョン・ハーシェルは「極めて目立つ目標。明るくまるく中央が明るい。3個の渦状部分からできている」とした。1848年ロス卿は「渦状で明るい星が上にある。星雲の薄い部分がこの星を横切って、ある程度のびている。主な枝は下にあり、右方向に旋回する」とした。ダレストは「大きく明るくピカピカときらめく。枝は少し分かれる。端の方で拡散しているのがはっきりする」とした。
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観測史
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SIMBAD のデータベースによると WASP-13 が初めて観測されたのは1997年で、これは銀河が観測された領域で天文学者が恒星の固有運動を測定している際のことであった。2006年11月27日から2007年4月1日の間に、カナリア諸島にあるスーパーWASPの SuperWASP-North 望遠鏡を用いた観測が行われ、データ解析の結果この恒星の周りを惑星が公転している可能性が示唆された。 その後、イギリス、スペイン、フランス、スイスとアメリカ合衆国の天文学者によって、スコットランドにあるジェームス・グレゴリー望遠鏡の光度計を用いて追加観測が行われた。近くに位置する明るい恒星 HD 80408 を比較星として用いた観測によって、WASP-13 のより良い精度の光度曲線が得られた。またフランスのオート=プロヴァンス天文台にある望遠鏡に設置された分光計 SOPHIE を用いて恒星のスペクトルから、視線速度の測定も行われた。さらに北欧光学望遠鏡での観測でもスペクトルが取得され、WASP-13 の特性が決定された。SOPHIE のデータによって太陽系外惑星 WASP-13b を持つことが2008年に判明し、2009年に報告された。 SIMBAD に基づくと、WASP-13 は発見から2010年の間に10報以上の論文で取り上げられている。
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観測史
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1781年3月15日、ピエール・メシャンによって発見された。M98、M99、M100はメシャンによって同時に発見されている。 メシャンは「星のない星雲。極端に微か」とした。1783年、ウィリアム・ハーシェルは「大きくよく広がった、きれいな星雲。位置はシャルル・メシエのいうM98に相当してはいるが、この方の記載では全体をよくみていないようである。微かな光が1/4°ばかりのびているのに注意していない。中心部には数個の星があるが、もっとあるようにも思われる。私の視野では星雲ははみ出る」とした。ロス卿は1850年「中心核から両方向におなじくらい腕が出て次第に微かに拡散している」とした。
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観測史
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1781年3月18日にシャルル・メシエによって発見された。メシエはこの夜、球状星団M92と8つの銀河を発見している。 メシエは「M84は星のない星雲で、中心部はかなり明るく、やや星雲状物質にとりかこまれている。明るさや外観はM59やM60に似ている」としている。ジョン・ハーシェルは1868年のカタログに「非常に明るく、かなり大きい。丸く中央は急に明るくなっている。どうやら分離できる」とした。ハインリヒ・ダレストは「中心部がよく輝く。円形。中心部が次第に明るくなっている。最小限直径3'。核は10~13等星に匹敵する。星団に密接して小さな青白い小星雲が南に後続する」と記している。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/12 23:20 UTC 版)
1781年3月15日にピエール・メシャンによって発見された。M98、M99、M100はメシャンによって同じ日に発見された。シャルル・メシエは「星のない星雲。先行するアンドロメダの耳にあるのと同程度の明るさ。M98、M99と共に微星なので非常にみにくい。天候がよいとき、または子午線通過の時だけ見える」とした。ジョン・ハーシェルは「中心は明るく、そこには星の群れがあるように思われる」としている。スミスは「星雲で真珠色。周囲から次第に中心部が明るくなっているので球状星団を思わせる。視野では星雲の周囲に小さな4個の星が見え、他に小さな微光が光点となってみえる」とした。ロス卿は「渦状。中心部が光り惑星状星雲のよう」とした。ロベールは写真撮影で渦状星雲であることをはっきりと確認した。 1901年と1914年に14等級程度の超新星が撮影され、それが1917年にカーティスによって確認された。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/20 01:32 UTC 版)
1774年にヨハン・ボーデよってM82と同時に発見された。ボーデは「M81は星雲状の光斑。やや円形で、中央部に明るい核がある」と記した。その他、1772年から78年にかけてヨハン・ゴットフリート・ケーラー(英語版)によって、また1779年8月にはピエール・メシャンによってそれぞれ独立発見されている。1781年にシャルル・メシエは「おおぐま座の耳に近い。4等か5等星に平行しており、位置はこの星から決定した。やや楕円。中心部ははっきりしており、3.5フィートの望遠鏡でよく見える」と記した。ジョン・ハーシェルは「顕著。非常に明るい核がある」と記した。1889年にロベールが写真から渦状星雲であることを確認し「核があり、境界は不明瞭で星雲状物質の輪(わ)で囲まれている」と記している。ロス卿は「アンドロメダ星雲に似て、渦状というのは回転している状態だろう」としており、実際にM81は回転が証明された最初の銀河となった。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/14 15:49 UTC 版)
1781年3月から4月にかけてピエール・メシャンが発見したが、メシャンは2年後の1783年5月に書簡の中で「M101を見誤ったと」してM102の発見を自ら否定している。メシエはM102について「うしかい座ο星とりゅう座ι星の間にある非常に淡い星雲で、6等級の星に近接している」と記している。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/23 01:47 UTC 版)
1764年7月27日にシャルル・メシエが発見した。メシエは「星のない星雲。3.5フィートの望遠鏡では難しい。直径2'」と記している。後にウィリアム・ハーシェルが初めて星に分解して、球状星団であることを明らかにした。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/23 01:48 UTC 版)
1764年6月20日にシャルル・メシエによって発見された。メシエは「明るいが口径1.7フィートの望遠鏡でははっきりしない。星雲状ではない」と記している。ジョン・ハーシェルは「個々の星の光度は12~15等。明るくきれいで星数が多い」としている。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/07 21:43 UTC 版)
1749年10月29日にギヨーム・ル・ジャンティが発見した。ル・ジャンティは「18フィート望遠鏡でM31を観測中、他に径1'ばかりの小宇宙を見つけた」と記している。
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観測史
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1654年以前にジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナによって発見されているが、彼の発見は世に知られなかった。ギヨーム・ル・ジャンティは1749年に同じぎょしゃ座にあるM36とM38を発見しているが、より規模が大きく目立つM37は見逃している。その後、1764年9月2日にシャルル・メシエが独立して発見したため、オディエルナの業績が再評価されるまで発見者はメシエとされていた。メシエは「M36にやや先行する。小さな星が並んで集まり接近し、星雲状のものをつつんでいる。3.5フィートの望遠鏡では星はみられない」と記している。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/17 10:11 UTC 版)
1781年シャルル・メシエによって発見された。メシエは「おおいぬ座と、とも座の船首との間にある星団で、星雲状のものはない。径8'」とした。ウィリアム・ハーシェルは8~13等の星で構成されているとした。スミスは「海のひとでのような感じ。Spの部分が一番明るく、星は7~12等」とした。ジョーンズは「羽を広げた蝶」に見立てた。 シュバリエ・タンゴスはM93を彗星とまちがえ、フランツ・フォン・ツァハはこれを「天文学上、全く言語道断のしくじり」と言った。タンゴスはフランス人陸軍大尉で1789年にマルタ島に観測所を設立したが、亜燐酸の実験で観測所を多数の建物もろとも消滅させてしまった人物だという。またタンゴスは誰も再発見できない彗星を発見したとメシエに書き送ったり、彗星が太陽面を通過したのを観測したと嘘の報告をした人物であるという。
※この「観測史」の解説は、「M93 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/10 09:40 UTC 版)
1779年6月14日にメシャンが発見した。シャルル・メシエは「メシャンの発見した星雲である。微かでM59と同じくらい。星を含まない。測微尺の僅かな照明で消える。近くの8等星が星雲に先行する」とした。ウィリアム・ハーシェルは「非常に明るく、NpからSf方向に広がる。よく輝く核がある」とした。
※この「観測史」の解説は、「M63 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 16:18 UTC 版)
1779年4月11日に、ヨハン・ゴットフリート・ケーラー(英語版)が彗星を観測中にM59とともに発見した。その翌日、イタリアの天文学者バルナバス・オリアニ(英語版)はM59は見逃したもののM60を独立して発見している。ケーラーの発見の4日後の4月15日にはシャルル・メシエがM58、M59と同時に発見している。メシエは「M58、M59よりはっきりしている。3個の星雲に星を含まない」と記している。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「二重星雲。中心距離は2'~3'。先行する方はひどくかすか。明るい方がこれに後続する。1779年のメシエの記載は不完全である。北と南に1個ずつ星が置かれ、93倍の視野は小さな星雲でにぎやかだ。M59の北西は縁と上部に小さな方が見え、実に4個の星雲が一度に見える」と記した。ウェップは「二重星雲で後続する方は極端に微かで、3.7インチでは見えない。広視野でM59の北西と南西にぼんやりとしたものが見える」とした。
※この「観測史」の解説は、「M60 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 16:31 UTC 版)
1780年10月5日と6日にシャルル・メシエによって発見された。メシエは「ちょっと見たところ3~4個の微星の集まりで、星雲状物質をふくみM72と平行」とした。ジョン・ハーシェルは「星団?極めて貧弱。星雲状物質はない」と記した。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「貧弱な視野に3個の10等星。」とした。
※この「観測史」の解説は、「M73 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/06 07:27 UTC 版)
1764年6月5日にシャルル・メシエが発見した。メシエは「前のもの(M20)の近くにある星団。知られている星でこの2つの星団に最も近いのは、いて座11番星である。この2つの星団には8等ないし9等の星が含まれ、星雲状の物質につつまれている」と記している。ウィリアム・ヘンリー・スミスはそれを受けて「メシエの言う星雲状物質というのは微星の集合を指している」と記している。ジョン・ハーシェルはジェネラルカタログに「とても多くの星からなり、星の集まり方のまばらな星団。9等から12等の星からなる」と記している。
※この「観測史」の解説は、「M21 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:25 UTC 版)
1780年8月27日にピエール・メシャンによって発見された。メシャンは「星のない星雲」としたが、同年10月にメシエは「星雲を交えた微星の集合」と記している。ウィリアム・ハーシェルは「肉眼で見えないが、ファインダーに映る。M3の小型版のようで、星に分解され、青白く見える」と記した。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「きらきらと輝く数個の星に混じって、澄んだ白い光塊」とした。
※この「観測史」の解説は、「M75 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:15 UTC 版)
※この「観測史」の解説は、「オーロラ」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 01:16 UTC 版)
1779年フランスのアントワーヌ・ダルキエ・ド・ペルポワ(英語: Antoine Darquier de Pellepoix)が口径約3インチの望遠鏡で彗星を観測していて偶然に発見し「大きさは木星ほどで、惑星をうすめたような感じで、ぼんやりしているが輪郭ははっきりしている」と記している。数日後シャルル・メシエも同じ彗星を観測中に発見し「γとβの間にあり、光のシミのよう。ここを通過した彗星の追跡中に見つけたが、形はまるく非常に微かな星から構成されているに違いない。しかし、良機でこれらの星をはっきりさせることはできず、ただの推測に過ぎない」と記している。両者ともリング状の形態を観測していない。 ウィリアム・ハーシェルは「穴の開いた星雲で、中心部に暗い星があり、おそらく星からできたリングであろう。楕円形で長短軸の比は83:100。この光は分解される性質のもので(すなわち、まだらで)、北側には3個の非常に微かな星、そして南の部分は1~2個の星が見られる」とした。ジョン・ハーシェルは「環の内部は、微かではあるが星雲状の光で満たされており、タガの上にガーゼを貼った感じがする」とした。ロバート・ポールは「たばこの煙でできた環のようだ。中に穴のある星雲」とした。ロス卿は「とくに短軸方向は分解されそうな気配を示し、そこに隙間があり、空間に入り込む枝状のもので破損しているように見える」とした。
※この「観測史」の解説は、「環状星雲」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/01 06:17 UTC 版)
1654年ごろにジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナが発見している。しかし、紀元前325年頃にアリストテレスが著書『気象学』の中で「尾のある星」と記した可能性も指摘されている。オディエルナの発見は世に知られず、1704年にジョン・フラムスティード、1749年にギヨーム・ル・ジャンティによって独立して発見されている。フラムスティードは「おおいぬ座の12番星近くの星団」とだけ記した。ルジャンティは「大犬の首ちかく、8フィート(焦点距離と思われる)の器械で見たときだけ星が識別できるが、2~3フィートの器械ではただの星雲状にしか見えない」と記した。
※この「観測史」の解説は、「M41 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/12 03:35 UTC 版)
「はくちょう座スーパーバブル」の記事における「観測史」の解説
1980年に、NASAの高エネルギー天文衛星HEAO-1に搭載されたX線観測装置A2:CXE (Cosmic X-ray Experiment) の観測データから発見された。超新星爆発による泡構造は、通常数光年から100光年を少し超える程度の直径だが、この泡構造は当初直径450 パーセク(約1,500光年)と見積もられ、発見当初からその成因について議論が分かれた。 発見者のWebster Cashらは、300万年から1000万年の年月をかけて、30 - 100個の超新星爆発によって段階的に形成されたとする説を採った。一方、Abbottらは、この付近に位置するはくちょう座OBアソシエーション (Cygnus OB2) の恒星の恒星風によって形成されたとする説を採った。旧ソ連のBlinnikovらは、1052 - 1053ergのエネルギーを発生させた単一の超新星爆発によるものとした。その他、このスーパーバブルは単一の成因による構造ではなく、超新星残骸やCygnus OB2の恒星風など複数の要因による複合体であるとする説も出されていた。 2013年、国際宇宙ステーション日本実験棟「きぼう」の船外実験プラットフォームに搭載された全天X線監視装置 (Monitor of All-sky X-ray Image, MAXI) の観測データから、200万 - 300万年前に起きた極超新星の痕跡であるとする研究結果が発表された。この研究では、ROSATの観測データを精査した結果から、複数の領域で水素柱密度 (hydrogen column density, NH) の値がよく似た傾向を示したことから、単一の成因によるものとした。また、Cygnus OB2はこのスーパーバブルの中心から離れたところにあり、球対称な泡構造を形成するには不適であるとした。極超新星は、太陽の数十倍の質量で生まれた大質量星が起こす超新星爆発で、天の川銀河では数十万年に一度程度しか起こらない非常に珍しい現象である。系外銀河では数件の発見事例があったが、天の川銀河内では痕跡も含めて発見されたことがなく、史上初の発見例となった。
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観測史
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1779年1月19日にシャルル・メシエにより発見された。同日メシエは彗星を発見している。同23日にメシエは「星のない星雲。ほとんど輝きはない」と記している。後にウィリアム・ハーシェルが1783年から84年の観測で星を分離して観測している。
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観測史
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1660年に初めてヨハネス・ヘヴェリウスが記録し、続いて1733年にウィリアム・デラムが、さらに1792年にモーペルテュイがリストに加えているが、その位置に星雲状の天体はなかったとされている。 メシエは1764年10月24日から25日にかけてこの位置に二重星を認め、後にメシエカタログに加えた。「(彼の望遠鏡のうち)6フィート単レンズ屈折望遠鏡では分離が難しいことから、ヘベリウスが星雲として見誤ったものと推測される」と記載されている。 ヨハン・ボーデはおおぐま座δ星の近くに星雲に包まれたような重星を見たと報じたが、カミーユ・フラマリオンは、そこには星雲も星団もないとして、存在を認めなかった。チェコ生まれのスロバキアの天文学者アントニーン・ベチュヴァーシュは星表に位置だけを示して説明はつけなかった。 各天文家の観測位置を2000年分点に修正した結果を以下に示す。 ヘヴェリウス (1660年) 赤経 12h 31m 赤緯 58° 27' メシエ (1746年) 赤経 12h 22m 赤緯 58° 5' フラマリオン (1919年) 赤経 12h 24m 赤緯 57° 33' ベチュヴァーシュ (1964年) 赤経 12h 35m 赤緯 58° 13'
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観測史
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1775年2月3日にヨハン・ボーデが発見した。ボーデは「かみのけ座10番星の東。新星雲。望遠鏡をとおして、まるく綺麗で鮮やか」と記している。ウィリアム・ハーシェルは「これまで記憶にあるものの中では、最も美しいながめの一つ。充実した球のような形にみえ、ぎっしりとつめこまれて光り輝き、その周辺を無数の微星がとりまいている。M10に似ている」とした。ジョン・ハーシェルは「星がまばらにつらなり、蟹の短い足のようである」とした。ロス卿は「一点に凝集していない。この小さな範囲に4~5カ所の集中点がある」と記した。ハーロー・シャプレーは変光星を50個発見し、続いてカフェイは46個追加した。
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観測史
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1772年4月5日にシャルル・メシエが発見した。しかし、ジャック・カッシーニの記録によると、ジャックの父のジョヴァンニ・カッシーニが1711年以前に発見していたともされる。1774年にヨハン・ボーデは「カッシーニがおおいぬ座とこいぬ座の間にあるという星団を探し、ついにいっかくじゅう座の腹の下で発見した。星雲状の光の上に小さな星がある星団で、西に4個の小星がある」と記している。ジョン・ハーシェルは「顕著な星団。非常に大きく、星数が多い。星の等級は12~16等」と記した。
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観測史
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1771年2月19日にフランスの天文学者シャルル・メシエが発見した。おとめ座銀河団の銀河として初めて発見されたものであり、局部銀河群の外の銀河としてもニコラ・ルイ・ド・ラカーユが発見したM83に続いて2番目に発見された銀河である。1779年にはオリアニ(英語版)が独立発見し、「非常に青白く、彗星の頭のようである」と記録している。ウィリアム・ヘンリー・スミスは、彼のベッドフォード・カタログの中でオリアニとメシエの発見を混同し、「1771年にオリアニが発見した」と記載してしまった。この誤りはジョン・ハーシェルのジェネラルカタログにも引き継がれ、ジョン・ドレイヤーのニュージェネラルカタログでようやく修正された。
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観測史
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1746年9月11日にジャン・ドミニク・マラルディが C/1746 P1(英語版)を観測中に発見した。彼はその5日後にM15を発見し、天文学への道に進んだが、生涯発見できたのはその2つだけだったという。マラルディは「まるく周辺が明らかで中心部4'~5'におよぶ。かなりの間隔をおいて周囲に微星が見える。そこにみえている小白点は小口径では認識できないような微星の集合であろう」と記述している。マラルディの発見からちょうど14年後の1760年9月11日にシャルル・メシエによって再発見された。メシエは「星雲、星ではない。中心部はよく輝き、まるく光にとり囲まれる。彗星の核のよう」とした。ウィリアム・ハーシェルは初めて星に分離し「50フィート望遠鏡で見ると、極端な星の集合ですばらしい微星」とした。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「きれいな球状星団。この優雅な星団は中心部が密集して実にきれいな球を作っている。この星団の世界で見られる生き生きとした無数の星々を想像せずにいられない」とした。ロス卿は「星が枝のようにつらなり、直角方向に伸びている」として、星が周辺部に連なり伸びているスケッチをのこしている。
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観測史
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M95とともに、1781年3月20日にピエール・メシャンによって発見され、同年3月24日にシャルル・メシエのカタログに記載された。メシエは「しし座にある、星のない星雲で、M95に近いがM95ほどはっきりしない。おとめ座のM84やM86に似ている」とした。ジョン・ハーシェルは「非常に明るくまた大きい。やや楕円をしている。中央は急に明るくなっている。とした。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「まるいがM95の方がはっきりしている。大きく青白い」とした。
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観測史
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「シュワスマン・ワハマン第3彗星」の記事における「観測史」の解説
1930年の発見後にこの彗星はしばらく行方不明になり、1979年8月になってパース天文台の天文学者らによって再発見された。1985年から1986年の回帰では再度観測されなかったが、1990年の回帰では再び観測された。 1995年の回帰では地球に接近する距離が1 auよりも大きかったため、観測に適していないだろうと予測されていた。しかし、10月初めに彗星核の分裂を起こし、これに伴って大きく増光した。このバーストによって核はA - D核の4個に分裂した。2001年の回帰時にはA、D核の消滅が確認され、新たにE核が発見された。2006年の回帰では、ロイ・A・タッカーによってB、CのほかにGが発見された。さらに多数の小さい核が発見され、Bから分裂したと考えられるH、J、K、L、M、P、Q、R、S、T、U、V、W、X、Z、AA、AB、AC、AD、AE、AF、AG、AH、AI、AJ、AK、AL、AM、AN、AO、AP、AQ、AR、Cから分裂したと考えられるAS、AT、Eが分裂したものと考えられるN、Yが確認された。 彗星の分裂核は2006年4月下旬から5月上旬にかけて地球に大接近し、5月12日にはC核が地球から0.0783 au(約1170万km)の距離を通過した。最接近時にはC核が2等級、B核が5等級、E核が5等級にまで明るくなると期待されていたが、実際は核の分裂が進んだせいかC核は5等級止まりであった[要出典]。 核の分裂の様子は地上の天文台およびハッブル宇宙望遠鏡、スピッツァー宇宙望遠鏡などによって観測され、解析が進められた。スピッツァー宇宙望遠鏡は、赤外線撮影により彗星のダストトレイルの撮影に成功した。 1930年に地球からこれと同程度の距離を通過した際には1時間に60~70個程度の流星群の突発出現が観測され、ヘルクレス座τ流星群と命名された。他にうしかい座α流星群、うしかい座ε流星群といった小規模な突発群も同時期に観測され、この彗星との関連が指摘されている。しかしPaul Wiegert(英語版)他による研究では、2006年の接近時にはこのような流星が出現する可能性は小さいと予想され、結局それらしき流星は出現せずに終わった[要出典]。2022年と2049年には観測できる程度の流星群が出現すると予測されている。 2002年に打ち上げられたNASAのCONTOUR探査機は2006年6月19日にシュワスマン・ワハマン第3彗星に接近して探査を行う予定だったが、2002年8月に探査機との通信が途絶したために探査計画は失敗している。
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観測史
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1781年3月18日にシャルル・メシエによって発見された。メシエはこの夜、球状星団M92と8つの銀河を発見している。 メシエは「星のない星雲。8等星に近い。M84、M86と同じくらいの明るさ」と記している。1864年にジョン・ハーシェルは「非常に明るく、かなり大きく丸い。中心部は急に明るくなりそこに核がある」と記した。ロス卿も同様な感想を記述している。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:40 UTC 版)
1996年2月23日に配信された国際天文学連合回報で、アマチュア天文家の櫻井幸夫が「ゆっくりと進行する新星の可能性がある天体 (possible 'slow' nova) 」を発見したことを、日本人天文学者の中野主一が報告した。この中で、櫻井が1993年から1994年に撮ったフィルムにも、1931年から1950年にかけてのハーバード・スミソニアン天体物理学センターの記録にもこの天体が全く見られないにもかかわらず、1995年1月から1996年2月にかけて徐々に明るくなっていることが報告されている。また、この回報の中でヨーロッパ南天天文台のステファノ・ベネッティとヒルマー・デュルベックらは「アウトバーストの振幅と光度曲線は、この天体が遅い新星、あるいは共生新星であることを示唆しているが、増光した1年後に明確な輝線を欠くのは非常に珍しい」としている。 最初の報告の後、デュルベックらは、櫻井が観測した「最後のヘリウムフラッシュの可能性がある天体」(‘possible final helium flash’)についての論文を発表した。その中で彼らは、桜井天体の位置は1976年に発見された21等級の暗い天体の位置に相当するとし、1994年から1996年に再び観測された時に11から15等級まで明るくなったとした。測定された流束、角直径、星雲の質量等の解析によって、5.5キロパーセクという距離や38太陽光度という光度が決定された。専門家は、この値は見かけやモデル予測とも合致するが、この領域の爆発の明るさは3,100太陽光度で、予測より3倍も低いことを指摘した。 最初の赤外線観測については、1998年に近赤外と遠赤外の両方の分光画像が公開された。集められたデータは、桜井天体の増光がモデルの予測どおりであることを示し、~680Kの温度の星周塵が存在することが発見された。さらに2000年に公開されたイギリス赤外線望遠鏡による赤外線のデータから、吸収線の変化の発見について議論された。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/27 07:50 UTC 版)
1672年、カッシーニは金星の近くに小天体らしきものを見つけたが、その時は自分の観測にさほど注意を払っていなかった。ところが、1686年金星の衛星らしきものを再発見したことによって、その存在性を公表した。 金星の衛星のような天体は、その後長きにわたり多くの天文学者によって観測報告が提出された。例えば、 1740年:ジェームズ・ショート 1759年:アンドレアス・マイヤー 1761年:ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ などである。1761年には1年間だけで5名の観測者によって計18回もの観測例が報告された。その中には、Scheuten による6月6日に生じた金星の太陽面通過時に太陽面に金星に続いて小さな点が観測されたとするものも含まれていたが、イギリスのチェルシーでこの現象を観測していたサミュエル・ダンはそのような別の点を観測していなかった。1764年には2名の観測者によって8例が報告され、1768年にはクリスチアン・ホレボーがコペンハーゲンでの観測を報告した。これらの観測からだいぶ経過して、 1875年にドイツのショール (F. Schorr) がこの衛星の観測を試みたことを書き残している。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/29 09:40 UTC 版)
シャルル・メシエの共同研究者であったフランスのピエール・メシャンによって1781年に発見された。「ふくろう星雲」と名づけたのはイギリスのロス卿で、彼のスケッチが残されている。メシエは「メシャンの報告によると、見るのが難しく、特に測微尺の糸が光るときに見にくい」と記した。ウィリアム・ハーシェルは「径2'40"明るさは平等。へりは鈍くなっている。微かな核が中心部に2個」とした。1848年にロス卿は「中心部にややはなれた2つの星があり、それぞれのまわりはうす暗く渦巻きにとりかこまれている」とした。ロス卿の6フィート望遠鏡で観測した猿の顔のようだと記した。スミスは「よくながめると木星ぐらいの大きさで濃淡がなく丸い」とした。ウェッブは「大きく青白。注目すべき天体。1850年以前は2つの開口部それぞれに星が見えていたが、それ以降は1個だけ(見える)。」としている。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/10 09:41 UTC 版)
1780年3月1日に、シャルル・メシエによってM66と同時に発見された。メシエは「非常に微かで星はない」としている。ウィリアム・ハーシェルは「非常に輝く星雲。南北方向に広がり径12'。明るい核があり、周りは急に拡散している」と記した。ロス卿は1848年に「奇妙な星雲。左側に明るい核がある。やや上方と右側に条があり、渦状。核の部分だけよく分かれる」とし、1854年には「核の片方に暗い場所があるようだ」とした。 2013年3月21日、日本のアマチュア天文家菅野松男によってII型超新星SN 2013am が発見されている。菅野はこの発見により彗星・新星・超新星の新天体発見三冠を達成した。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/16 04:25 UTC 版)
1778年7月24日にシャルル・メシエが発見した。メシエは「非常に明るい星団。中心が明るく星はない。口径3.5フィートの色消し望遠鏡でよくみえる」と記した。メシエは星に分離して見ることはできなかったが、ウィリアム・ハーシェルも周辺部の星を少し分離しただけで、球状星団であるとは認識できなかった。ジョン・ハーシェルは「球状星団。非常に明るくまるく中心部が周りから急に明るくなっている。星によく分かれ、主に15等級の星からできている。外周2.5'のところに14等星がある」と記している。
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観測史
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1867年、シャルル・ウォルフとジョルジュ・ライエは、パリ天文台での観測中に、はくちょう座の領域にあるHD 191765、HD 192103、HD 192641の3つの星のスペクトル中に、連続スペクトルとは異なる、幅の広い輝線の帯があることを発見した。ほとんどの天体は、特定の周波数で光エネルギーを吸収する元素に覆われているため、そのスペクトル中に吸収線または吸収帯を持つだけであり、幅の広い輝線の帯を持つこれらの星は明らかに特異な天体であった。 ウォルフ・ライエ星のスペクトル中の輝線帯の性質は、その後数十年間謎のままであった。エドワード・ピッカリングは、この輝線は水素の異常な状態に起因するものとして理論化し、この「ピッカリング系列」の輝線は半整数の量子数が置換されたときのバルマー系列に似たパターンをたどっていることがわかった。後に、これらの線は1868年に発見されたヘリウムの存在に起因することが示された。ピッカリングは、ウォルフ・ライエ星のスペクトルと星雲のスペクトルの類似性に着目し、ウォルフ・ライエ星の一部または全てが惑星状星雲の中心星 (CSPNe, center stars of planetary nebulae) であるという結論に至った。 1929年までに、輝線帯の幅はドップラー効果によるものであり、従ってこれらの星を取り囲むガスが視線方向に300 - 2,400キロメートル毎秒の速度で移動しているに違いないと考えられていた。結論は、ウォルフ・ライエ星は絶えずガスを宇宙空間に放出しており、星雲状ガスのエンベロープの膨張を引き起こしているということであった。観測された高速のガス放出を生み出す原動力は、恒星の放射圧である。ウォルフ・ライエ星型のスペクトルを持つ星の多くがCSPNeであることはよく知られていたが、明らかな惑星状星雲やその他の目に見える星雲とは全く関係のない多くのウォルフ・ライエ星があることも知られていた。 ヘリウムに加え、カーライル・ビールズは、ウォルフ・ライエ星のスペクトル中に炭素、酸素、窒素の輝線があることを明らかにした。1938年、国際天文学連合は、スペクトル中で窒素の輝線か炭素と酸素の輝線かのどちらが相対的に支配的であるかを基準として、ウォルフ・ライエ星をWN型とWC型に区分した。 1969年には、強いO VIの輝線を持ついくつかのCSPNeが新たな「O VI系列」あるいはOVI型としてとしてグループ化された。これらの星は後に典型的なウォルフ・ライエ星と区別して[WO]星と呼ばれるようになった。少し後に惑星状星雲と関連性のない似たスペクトルを持つ星が報告され、最終的に種族Iのウォルフ・ライエ星にもWO型の分類が採用された。
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観測史
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ある程度望遠鏡の精度が向上した1665年に発見された。しかし、1664年5月にはイギリスの天文学者であるロバート・フックにより、木星の表面に渦が存在することが既に確認されている(なお、フックが観測した渦は赤道の北部に位置しており、南に位置する現在の大赤斑とは異なると考えられている)。1665年から1713年まで、および、1831年から現在までの間は断続的に観測されている。しかし、1714年から1830年までの間は観測されておらず、1665年に観測された大赤斑と現在の大赤斑は異なる可能性もある。
※この「観測史」の解説は、「大赤斑」の解説の一部です。
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観測史
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1939年、3つの白斑が発見され、エルマー・リーズ (Elmer J. Reese) によりオーバルBC、DE、FAと命名された。 1998年、BCとDEが融合し、オーバルBEとなった。2000年、BEとFAが融合し、オーバルBAとなった。 2005年から、徐々に赤くなり始めた。 2006年、赤斑となって初めて大赤斑とすれ違ったが、目に見えた変化はなかった。2008年、オーバルBA・大赤斑・小赤斑が、ほぼ同時に互いにすれ違う現象が起き、小赤斑はその影響で消滅した。
※この「観測史」の解説は、「オーバルBA」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 14:27 UTC 版)
1745年から46年にかけてジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾーによって発見された。シャルル・メシエは「3.5フィート望遠鏡では難しい。星雲状物質は見つからない」と記している。
※この「観測史」の解説は、「M25 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 20:47 UTC 版)
1779年4月15日、彗星を観測していたシャルル・メシエによってM59、M60と共に発見された。メシエは「おとめ座の非常に微かな星雲で、3等星とほぼ平行している。測微尺の糸がちょっとでも光と消えてしまう」と記している。最初期に渦巻き状の構造が発見された銀河の一つで、1850年にロス卿がまとめた「渦巻星雲 (spiral nebulae) 」14個の中の一つとして記録されている。1864年にジョン・ハーシェルは「明るく、大きく、不正円形。中央部がすばらしく明るい。どうにか分かれそう。むしろ星がにじんだ感じだ」と記した。
※この「観測史」の解説は、「M58 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 20:48 UTC 版)
子持ち銀河は1773年10月13日にシャルル・メシエが発見した。「星はなく非常に微か」と記している。伴銀河はピエール・メシャンが1781年3月21日に発見した。メシエは1781年に発刊したカタログで、「二重で、その各々がよく輝く中心部を持ち、両者は4'35"離れている。二つの「大気」は触れ合っており、片方が暗い。」と記している(同様に、ジョン・ハーシェルも1889年にM51を中央部円形部分と外のリングの二重となっているスケッチを残している)。同じ1781年、ヨハン・ボーデは「小さく微かに輝く。おそらく楕円」と記した。ジョン・ハーシェルは「我々の世界と同じだと思われる。取り巻く暈は銀河系を表現する」とした。スミスは「明るく白い一対の星雲がそれぞれ核を持ち、惑星状物質がお互いに入れ込んで、南の方は中心部が輝き光輪にとりかこまれ水平になった時の輪のある土星のゴーストに似ている。我々が属する同じような星の宇宙は数えきれぬほどの能力のあるものが住んでいるにちがいない」とした。スミスはコアを取り巻く微かな4本程度の短い湾曲した腕のようなものをスケッチで描いている。 この銀河は銀河の渦巻構造が1845年にはじめて観測された銀河であり、ロス卿による観測スケッチが残っている。「渦状。高倍率では一層複雑な構造が分かる。大きい方と小さい方はつながっているに違いない。最も珍しい渦状星雲である」1861年には「外側の核は渦が左巻きになっているのは事実である」と記している。ウェッブは「ロス卿の驚異的な渦状星雲。この光輪はすぐれた器機でないと及ばない。この不釣り合いな一対はよいコントラストを示す。大きい方の光輪は追跡できる。9.3インチで渦の終わりがわかる。ファインダーでは神秘的な光班」、フラマリオンは「よく目立つ二重星雲。それぞれ中心部がよく輝いて明瞭。互いの連絡箇所ははっきりしている」とした。 子持ち銀河は明るい銀河で双眼鏡でも観測できるためアマチュア天文家にも人気が高い。双方の銀河を結ぶ腕は口径10cm程度の望遠鏡でも見えるという人もいる。マラスは10cmの望遠鏡で主星雲の中心部分に濃淡を描き、伴星雲とつながった淡い腕を描いているが、単に「写真を見過ぎたせいかも」とも記している。渦状構造がどの程度の望遠鏡から見えるかと言えば、シュトルーヴェは15インチではっきりとし、サゴは13インチの80倍ではっきりするとした。マラスは12.5インチではっきりとみえるとした。条件が良ければ口径8cm程度の望遠鏡でも腕を見ることができるという人もいる。
※この「観測史」の解説は、「子持ち銀河」の解説の一部です。
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観測史
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1965年、岡山天体物理観測所(現国立天文台ハワイ観測所岡山分室)の大沢清輝らは、HD 221568が約160日の周期で色指数が変光していることを発見した。1967年、小平桂一は岡山天体物理観測所の188cm望遠鏡のクーデ分光器を使った観測によりHD 221568の化学組成比を詳しく調査し、希土類元素が太陽に比べて著しく大きな組成比を示していることを明らかにした。2002年、西村昌能らはすばる望遠鏡の高分散分光器HDSを使った観測でHD 221568の化学組成比をさらに精査し、希土類元素ではプラセオジム、ネオジム、ジスプロシウムが特に過剰であることや、コバルト過剰星であることを明らかにした。
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観測史
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わし座V605星は、1919年に新星として最初に記録されたが、後に非常に珍しい変光星であることが判明した。ピーク時の光度は10.4等と測定された。増光以前の写真を調べた結果、1918年に12等に明るくなるまでは15等かそれ以下の明るさであった。その後1年以上は11等かそれ以上の明るさを保っていたが、次第に暗くなっていった。その後、1921年後半と1923年に12等まで増光した後、姿を消した。増光時のスペクトル型はR0、水素欠乏型炭素星で、一部のかんむり座R型変光星 (RCB) に似ていた。 その後、18 - 20等級で数回検出されたが、これらは星の位置を取り囲む小さな星雲の節状構造が検出されたに過ぎないと考えられている。ハッブル宇宙望遠鏡の撮像では、星自体は23等よりも暗く、星雲は2.5秒ほどの大きさの明るく不規則な形状の赤外線天体であった。星はまだ明るいが、濃い星雲に大部分が隠れているのではないかと疑われた。直接の検出はできなかったが、散乱光からは[WC4]スペクトル型が観測され、ピーク光度時のスペクトルとは大きく異なっていた。2013年には、中心星が20.2等で検出され、4等級の減光が推定された。
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観測史
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1774年9月7日に、フランスの天文学者シャルル・メシエがモンテーニュ彗星 (C/1774 P1) を観測中に発見した。メシエは「非常に微かな星の集まり。星雲状物質を交え、普通の色消し望遠鏡で見える」と記している。ジョン・ハーシェルは「大きく星数が多く、丸く集中している。星の等級は9~13等」と記した。スミスは「乱雑に星がまかれているが、三角形を作る星の頂点に、橙色の星が置かれ、羽を伸ばした鳥のようである。7~8等級の星2個が先行し、他の同じぐらい明るい星が後続する」と記した。ウェッブは「不規則。よくあることだが橙の星がある」とした。
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観測史
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1764年7月29日にシャルル・メシエにより発見された。メシエは「7~8個の星からできている星団で、3.5フィートの望遠鏡では彗星のようにみえる」と記している。
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観測史
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1771年6月7日にシャルル・メシエが発見したが、位置の測定は1779年6月4日に成されたため、カタログにはその日付で記載されている。メシエは「非常にきれいな星雲で、やや彗星に似る。中心部はよく輝く。微かな光の取り囲まれている」と記している。他のメシエ天体の球状星団と同様に、ウィリアム・ハーシェルによって初めて星の集まりとして分解して観測された。ハーシェルは「星に分解される。M3のミニチュアだ」と記している。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「大きく綺麗な分解可能な星雲。中心部が輝く。微星は中心部で急に輝く」とした。1847年にはジョン・ハーシェルによって扁平率が高いことが記録されている。
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観測史
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1780年8月29日から30日にかけてピエール・メシャンによって発見され、同年10月にシャルル・メシエが確認の上、カタログに記載した。メシエは、「メシャンがやぎ座の首の上に発見した。先立つM71と同じくらいかすかに見える。」とした。1810年にウィリアム・ハーシェルは40フィートの望遠鏡で「非常に明るい、外形のまるい星団だ。中心から離れて微星がまかれている。中心部はひどく密集しているが、よく注意すれば星が見えてくる。視野内の星の光度は多様で、ふつう星団を形成する淡い星とは異なっているが、こういった星団にこのような星があるかもしれないと考えられないわけでもない」とした。スミスは「微星が集まる球状星団。視野に多くの星が見られ、星団に接して一対の重星が続く。南7'にM73がある」とした。
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観測史
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1681年にドイツのゴットフリート・キルヒによって発見された。キルヒは「不明瞭な光斑」と表現している。1733年頃、ウィリアム・デラムによって初めて星団であることが示された。シャルル・メシエは「非常に多くの星が集まっている。良い器械ならこれが見えるが、私の(口径)3フィート望遠鏡では彗星のようで、星団の中には微かな光が混じり合っているようである」と記している。
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観測史
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1780年10月26日にピエール・メシャンによって発見された。メシエは「星のない星雲。うさぎ座の下にある6等星に平行する。1780年10月26日にメシャンが発見。12月17日にメシエが見つけた。これはきれいなもので、中心が輝き星雲状、ややぼんやりしている」と記した。ウィリアム・ハーシェルは「20フィートの望遠鏡できれいに見える。直径3'。球状星団。星数の富む」と記している。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「輝く星状の星雲。きれいな対象。中心部ほど良く光る」とした。
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観測史
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1781年3月24日にピエール・メシャンによって発見された。M95とM96の発見の4~5日後、M101よりも3日早く発見されたのにもかかわらず、シャルル・メシエが1784年に発行した第3版のメシエカタログには記載されていなかった。その後、ヘレン・ソーヤー・ホッグによってM106、M107とともに1947年にメシエカタログに加えられた。
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観測史
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1781年2月18日(または19日)にピエール・メシャンによって発見された。メシャンはこの二三日前の2月16日に近隣にあるM97を発見している。メシエがカタログに載せなかったため世には知られず、1789年4月17日にウィリアム・ハーシェルによって独立発見されている。
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観測史
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1779年4月11日に、ヨハン・ゴットフリート・ケーラー(英語版)が彗星を観測中にM60とともに発見した。そのわずか4日後にシャルル・メシエもM58、M60と同時に発見している。メシエは「M58に先行し、ε星と平行する。位置はこれから決定した。双方とも微かである」と記している。1864年にジョン・ハーシェルは、「明るく、かなり大きい。ほとんど広がりがなく、中央が急に明るくなっている」と記している。
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観測史
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1780年メシエによって発見されたが、いくつかの不審な誤りの結果、ウィリアム・ヘンリー・スミスはピエール・メシャンの発見と記録してしまった。この誤りは20世紀になってヘレン・ソーヤー・ホッグによって訂正された。 メシエは「うみへび座の星のない星雲。非常に微か。望遠鏡で見るのは大変難しい。近くに6等星がある」と記した。1786年ウィリアム・ハーシェルは「たくさんの微星に分解され、非常に密集しているので、大多数の星は径3'~4'の間に混じり合っている」とした。ジョン・ハーシェルは「球状星団。不正円形。中央部が次第に輝く。はっきり分かれる。12等星。周辺は乱雑でざらざらしている」とした。ウェップは「球状星団。よく分解される。12等星でそのうち1個は赤い」とした。
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観測史
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1781年3月18日にシャルル・メシエによって発見された。メシエはこの夜、球状星団M92と8つの銀河を発見している。 メシエは「星のない星雲。極端に微かで青色。見るのが困難」と記した。ジョン・ハーシェルは「かなり明るく、大きく円形。中央は次第に明るくなっている」とした。ハインリヒ・ダレストは「非常に美しくまるく直径45"。核の明るさは10等星にも匹敵する」とした。カミーユ・フラマリオンは「やや星雲状。M87ほどおおきくもない。明るさもない。中心部が明るい」とした。
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観測史
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1781年3月18日にシャルル・メシエによって発見された。メシエはこの夜、球状星団M92と8つの銀河を発見している。 メシエは「小さな2個の星の間にある星雲。この一つは6等星。もっとも暗い星雲でM58に似ている」と記した。スミスは「長く楕円形の星雲。青白く北東から南西方向に傾く。視野で星が行列を作る。北の部分は南より明るい。渦状であると推測される」とした。ハインリヒ・ダレストは「核。すばらしい星雲の領域」と記している。フェーレンベルクはアンドロメダ大星雲のミニチュアであるとした。
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観測史
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1752年6月16日にニコラ・ルイ・ド・ラカーユがケープタウンで発見した。ラカーユは「大彗星の微かな核のようだ」と記している。1778年7月24日にシャルル・メシエは「白っぽく斑点状の星雲で、まるく濃淡がなく星は見えてこない」とした。ジョン・ハーシェルは、「球状星団。11~13等級の星に分離できる。明るく大きく非常に星数が多い。次第に、中心が明るくなっている」とした。カミーユ・フラマリオンは「はっきり星が見える。広範囲にわたり不規則にまかれた星の大集塊で、星雲状の物質の中にある。直径6'でやや南北に伸びている。南天の驚嘆すべき目標である。やや青白く見えている」とした。
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観測史
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フランスの科学者ジャン=ジャック・ドルトゥス・ド・メラン(Jean-Jacques d'Ortous de Mairan )が1731年にオリオン大星雲に接した星雲を発見している。ド・メランは「オリオンの輝く部分に近く、もうひとつの星があり、同じような光につつまれている」と記している。
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観測史
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1764年5月3日にシャルル・メシエによって発見された。メシエはM3を皮切りに、この1764年の終わりまでにM40までをリストアップしている。メシエは口径12cmの望遠鏡で観察し「星がない星雲で中心部がよく輝く。周辺は次第に薄れ、まるい」と記録している。ウィリアム・ハーシェルは「径5'~6'のきれいな星団」とした。ジョン・ハーシェルは「11~12等級の星が直線上に連なり。不規則な突起を見る」とした。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「よく輝く。1000個を下らぬ星塊。中心部ほどすばらしい輝き。星が非常に密集して外にまばらに伸びている東南部を除いてあらゆる方向に枝を出していて、正しく"くらげ"のようだ」とした。ロス卿は「中心からあらゆる方向に突起がでて、中心部には暗い穴が数個ある」とした。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 07:55 UTC 版)
1774年にヨハン・ボーデがM81と同時に発見した。ボーデは「星雲状の光斑で青く楕円」としている。1781年シャルル・メシエは「星のない星雲でM81に先行、M81ほどはっきりしない。望遠鏡で同じ視野にみえる。端に微星があり、微かで全体がのびている」とした。ジョン・ハーシェルは「非常に大きく明るく、腕が出ている」としている。スミスは「長くて狭く、北端が明るく、M81より青白い」と記した。1871年ロス卿は「ボーデの星雲。奇妙に曲がりくねった腕がある」とした。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/30 01:19 UTC 版)
1764年6月1日にシャルル・メシエによって発見された。「星のない星雲。微かで大きくはない」として星団ではなく、星雲と記している。初めて分離したのはウィリアム・ハーシェルで「星に分解。300倍で見える。ひどく明るくて、まるい。かなり散開した星々の後ろ側にあり、これらの星々は星団の上に投影されている。M10と似ている」としている。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 06:27 UTC 版)
1764年にフランスの天文学者シャルル・メシエがM16とともに発見した。「暗い星からなる星団で、M17の少し下にあり、M16よりも少し見えにくい。3.5フィート望遠鏡では星雲が見えるが、よい望遠鏡では星だけが見える」と記している。実際には、星雲はなく、スミスはその記載に言及し「熱心な観測者の使用する望遠鏡が必ずしもその熱意に応えてくれないものだ」と記している。ハーシェルは「星が少なく、非常にまばらな星団」と記している。
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観測史
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ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナによって1654年以前に発見されていたものと考えられている。それとは独立して1764年8月25日にシャルル・メシエに発見され、メシエカタログの33番に加えられた。メシエは「ほとんど濃淡のない星雲だが、中心部の2/3がやや明るい。星は含んでいない」と記している。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/10 12:58 UTC 版)
1781年3月22日にピエール・メシャンよって発見され、2日後にシャルル・メシエによって記録された。メシエは「チャールズの心臓(コル・カロリ)の上。星のない星雲で8番星と平行。中心がよく輝いて、星雲状のものが少しばかり拡散する。うさぎ座のM79と似ているが、これよりも明るい。」と記した。ジョン・ハーシェルは「不正円形で輝く核。どうにか分解されそう」と記している。スミスは「彗星状の星雲。きれいで青白い。微星が密集したもののような兆候がある。中央が周囲から少しずつ明るくなっている。視野に数個の星が見え、南側のしぶんぎ座にあるものは重星である」としている。1855年にロス卿は「核のまわりに暗いリングがある。丸くこの外側を明るいリングが取り囲むが破損し不完全である。この目標は多分渦状であろう。微かな星雲状のものが沢山外周に見られる」とした。
※この「観測史」の解説は、「M94 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/18 16:04 UTC 版)
1781年にシャルル・メシエによって発見された。メシエはM84と同じような外観であるとしている。
※この「観測史」の解説は、「M86 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/24 05:17 UTC 版)
1781年にメシャンが発見した。メシャンは「カシオペアの足のδとεの間にある星団」と記している。ジョン・ハーシェルは「明るくかなり大きい」とした。スミスは「均整がとれ重星があり、Struve131は黄と青の一対。位置角141°、角距離14.4" (1832年) 。扇形で北後続の部分で星がはっきり分岐する。きわめて多くの星の流れが見える。四方に枝分かれし、主な枝の星の光度は7~9等程度。明るい8等の赤い星が南に続く」とした。ウェッブは「δのわずか1°北。視野は美しくStruve131と赤色星をふくむ」とした。
※この「観測史」の解説は、「M103 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 15:24 UTC 版)
1752年ニコラ・ルイ・ド・ラカーユによってケープタウンで発見された。1781年にメシエは「ケンタウルスの頭に近い星のない星雲。微かで光っているが、測微尺の糸をほんの少し照らすだけでも消えてしまい望遠鏡でみるのはむずかしい。最大の集光力でみることができようか。6,7等の星と三角形をつくっている」とした。ジョン・ハーシェルは「非常におおきくまた明るい。方位角55.1°の方向に広がっている。中央は急激に明るくなっていて、そこに核がある」と記している。ラッセルはマルタ島で渦状部分の腕を3本見てスケッチを取ったが、写真以前にこの腕を肉眼でみたのはこれが最初であったとされる。
※この「観測史」の解説は、「M83 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 13:18 UTC 版)
1781年3月18日にシャルル・メシエによって発見された。メシエはこの夜、球状星団M92と8つの銀河を発見している。メシエは「おとめ座で星のない星雲。M90に先行。これより微か」と記している。
※この「観測史」の解説は、「M91 (天体)」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 22:45 UTC 版)
1781年7月にピエール・メシャンが発見した。メシャンは「1781年7月私はおおぐま座に近い、りょうけん3番星の1°ばかり南で、もうひとつの星雲を発見した…」と記している。当初はカタログに収められていなかったためメシャンの発見は世に知られず、1788年3月9日にウィリアム・ハーシェルによって独立発見されている。ハーシェルは「かなり大きく、核は輝く」とした。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 00:48 UTC 版)
「HE 1327-2326」の記事における「観測史」の解説
HE 1327-2326は、ヨーロッパ南天天文台のラ・シヤ天文台に設置されている口径1メートルのシュミット式望遠鏡を用いたクエーサー探索のための掃天観測で撮影された明るい金属欠乏星1,777個の中から発見された。2003年に、同天文台の3.6メートル望遠鏡を用いた観測で極端に金属量が少ないことが明らかとなり、2004年のすばる望遠鏡の高分散分光器 (HDS) を用いた分光観測によって詳しい化学組成が明らかとされた。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 03:15 UTC 版)
エドモンド・ハレーは、1665年8月26日にドイツの天文学者ヨハン・アブラハム・イーレ(英語版)が土星の遠日点近くでの動きを観測していたときに発見した、としている。ウィリアム・ヘンリー・スミスは、1665年以前にヨハネス・ヘヴェリウスによって発見されていたという説を提示したが、イーレとヘヴェリウスは親しく連絡を取っており、スミスの説の信憑性は低い。1716年にハレーは「この星団は冬至点に近く、小さくてよく輝く」と記している。ケネス・グリン・ジョーンズは「ゆがんでいる軸は眼視と写真とは異なる」と主張している。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:21 UTC 版)
「テンペル・タットル彗星」の記事における「観測史」の解説
テンペル・タットル彗星は、1865年12月19日にフランスのマルセイユの天文学者エルンスト・テンペルが発見し、翌1866年1月6日にアメリカのハーバード大学天文台のホレース・タットルが別に発見した。1月11日に近日点を通過し、2月9日まで観測された。しかし、予想されていた1899年、1932年の回帰は観測されず、行方不明になっていた。 いっぽう、発見の数年後、イギリスのジョン・ハインドが、868年と1366年の彗星がテンペル・タットル彗星かもしれないと示唆していた。1933年に日本の神田茂は、詳しい分析をおこない、868年の彗星は無関係だが、中国で観測された1366年の彗星はテンペル・タットル彗星だと結論づけた。1965年、ドイツのJoachim Schubart(ドイツ語版)は、過去500年にわたる軌道計算をおこない、1366年の彗星だけでなく、ドイツのゴットフリート・キルヒが観測した1699年の彗星もテンペル・タットル彗星だと証明した。こうして得られた3回の回帰のデータをもとに再び軌道計算した結果、彗星は1965年に回帰していたはずだと予言された。実際に、1965年6月30日に南アフリカで確認された。1965年の回帰では16等程度にまでしか達しなかった。
※この「観測史」の解説は、「テンペル・タットル彗星」の解説の一部です。
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観測史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 07:25 UTC 版)
ヴィルト第2彗星は1978年1月6日にパウル・ヴィルトがスイスベルン大学のツィンマーヴァルト天文台にある口径40cmシュミット式望遠鏡を用いて撮影した写真上から発見した。 その後の観測でヴィルト第2彗星は1974年に木星に0.2 auまで接近していることが明らかになった。この接近で木星の摂動の影響を受けて軌道が変わり、公転周期は約40年から6年弱へと減少した。
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観測史
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フェイ彗星は11月23日にフェイにより初めて観測されたが、悪天候のため確認されたのは25日まで遅れた。発見される1ヶ月前には近日点を通過していたが、地球と接近していたため発見できる程度の明るさであった。オットー・フォン・シュトルーベ(英語版)は11月終わりまで肉眼で観測できたことを報告した。また、彼によると翌年の1月10日までなら3.6インチ反射望遠鏡のような小さい望遠鏡で観測することができ、1844年4月10日になると15インチ反射望遠鏡のような大きい望遠鏡でも観測できなくなったという。 1843年にフリードリヒ・ヴィルヘルム・アルゲランダーとトーマス・ヘンダーソンはそれぞれ独立してフェイ彗星が短周期彗星であることを計算し、5月にはその周期を7.43年と計算した。ユルバン・ルヴェリエは1851年に出現するフェイ彗星の位置を計算し、4月に近日点を通過すると予測した。フェイ彗星は1850年11月28日には彼の予測に近い場所にあることがジェームズ・チャリスにより確認された。 フェイ彗星は観測に適していない状況であった1903年と1918年には観測されなかった。2006年には見かけの等級が9に達することがあった。
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観測史
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1781年5月27日にピエール・メシャンが発見した。同年シャルル・メシエは「星のない星雲で、非常にもうろうとしてきれい。径は6'あるいは7'。うしかいの左手とおおぐまの尾の中間にある。視野の十字線が光っているときはむずかしい」と記している。ウィリアム・ハーシェルは「まだらのある星雲状」、ジョン・ハーシェルは「かなり大きく明るい不正円形」、スミスは1844年「拡散した輝く物質からできている。というよりむしろ巨大な星塊からできた球状の星団のひとつ。はかり知れないほどの距離」1855年には「青白い星団で、条件がよければ大きくより広がっている。ごく微かだが中心部はよく光っている」とした。ロス卿は「大きく渦状。微かで数個の腕が出ており、中心部の結び目は少なくとも径14'」とした。彼のスケッチにははっきりと渦状の腕が描かれている。
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観測史
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「パーライン・ムルコス彗星」の記事における「観測史」の解説
パーライン・ムルコス彗星は1896年12月9日にアメリカの天文学者チャールズ・パーラインがカリフォルニア州のリック天文台で初めて発見した。 1909年の回帰のときに観測されて以来観測されなかったため消失したと考えられていたが、1955年10月19日にチェコの天文学者アントニーン・ムルコスがスカルナテ・プレソ天文台で双眼鏡を使って再発見し、後にカリフォルニア大学バークレー校のLeland Cunningham(英語版)によってパーラインが発見したものと同一のものであると確認された。 Friedrich Wilhelm Ristenpart(ドイツ語版)らはパーライン・ムルコス彗星の軌道が近日点引数を除いて消滅したと考えられていたビエラ彗星と似ていたためその関係性を疑った。しかし、木星の摂動を考慮した上でも軌道は合致しなかった。 この彗星は1968年に最後に観測されたが、予測された1975年以降には現れず、現在は消失したと考えられているため符号にはPではなくDが付く。
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観測史
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ブルックス第2彗星は1889年7月7日にウィリアム・ロバート・ブルックスにより発見された。発見当日は動きを観測できなかったが、翌朝に北へ移動しているのを確かめることができた。1889年8月1日、有名な彗星ハンターのエドワード・エマーソン・バーナードはそれぞれ1分と4.5分離れた位置に2つの核断片"B"と"C"があることを発見した。また8月2日にはさらに別の4つか5つを発見したが、翌日には見られなくなっていた。8月4日には、"D"及び"E"と名付けられたさらに2つの断片が発見された。"E"は翌夜、"D"は翌週にはなくなっていた。8月の中旬頃から、"B"は大きく暗くなり、9月初旬に消滅した。"C"は1889年11月頃まで見られた。その後1891年1月13日に接近が終わるまで、新しい彗星核が発見されることはなかった。 この核の分裂は、1886年に彗星が木星のロッシュ限界の内に入り、イオと同様の軌道になったときに起こったと考えられている。1889年の発見時以来、この彗星は2等級以上暗くなっており、他の破片は観測されていない。
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観測史
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フィンレー彗星は1886年にはじめて軌道の計算が行われ、1844年にフランチェスコ・デ・ヴィコが発見したが、行方不明になった彗星1844 Q1(現在のデヴィコ・スイフト・NEAT彗星(英語版))と類似していると考えられた。その後、アメリカの天文学者、ルイス・ボスはデ・ヴィコの彗星とフィンレー彗星は異なるものであると結論付けた。 1899年に回帰したときには観測には不向きであったため観測されなかったが1906年の回帰では見かけの等級6にまで達した。1910年には木星付近を通り過ぎて摂動の影響を受けたため、公転周期が変化した。1919年には軌道が予測されていた位置から外れたため天文学者らは発見できていなかったが、「新しい」彗星として1919年10月25日に日本の天文学者、佐々木哲夫に再発見され、フィンレー彗星だと同定された。 フィンレー彗星の見かけの等級は1926年以降小さくなり、1933年、1940年、1947年の回帰は観測されず、1953年になってやっと観測された。 2014年の回帰では12月16日にアウトバーストを起こし、見かけの等級は11から8.7へと増光した。また、2015年1月15日には二度目のアウトバーストが起こった。 フィンレー彗星は、地球との最小交差距離が0.01 auである。2060年10月22日には、地球に0.0345 auまで接近すると予測されている。これはハレー彗星が837年に地球に0.03 auまで接近したときに匹敵する。
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観測史
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以下に過去のハレー彗星の出現年及びそれが言及されている記録について説明する。出現についてはジェット推進研究所(JPL)による近日点通過時の年に基づく。
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