観測史とは? わかりやすく解説

観測史

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スイフト・タットル彗星」の記事における「観測史」の解説

スイフト・タットル彗星紀元前574年紀元前447年紀元前紀元前322年にも肉眼見えた考えられているが、始皇帝焚書坑儒などもあるためか記録残っていない。 初め記録上に見られるのは漢書で、地節1年紀元前69年)に客星現れと書かれているまた、後漢書には中平5年188年)に客星現れたとする記述があり、これも今日スイフト・タットル彗星として知られる彗星該当する。このときの見かけの等級0.1等に及んだ考えられている。 それからこの彗星1500年上もの観測されず、1737年にようやくケーグラー(中国語: 戴進賢)によって観測された。しかし彼はスイフト・タットル彗星であると分かっていたわけではなく、白い奇妙な星であると記述した1970年代天文学者ブライアン・マースデンによって同一である可能性論じられた。 1862年には冒頭述べたとおりルイス・スウィフトにより7月16日に、ホレース・タットルにより7月19日発見された。公転周期120年前後予測され1971年にはマースデンらも約120年予測した。しかし、1737年との関連性にも注目し1981年回帰するという説と1992年回帰するという2つの説を提唱した。 そして1992年9月26日日本コメットハンター木内鶴彦が11.5等のスイフト・タットル彗星再発見した。さらに10月に入ると8.5等に及び、11月下旬には5等かつ尾の長さが6.7 °になった自転周期も2.9日と求められた。

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M34 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1654年以前ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナ発見していたが、彼の発見世に知られず、1764年8月25日シャルル・メシエ独立発見している。メシエは「アンドロメダ座γ星とほぼ平行よりやや下にある小さな星からできた散開星団。3インチの普通の望遠鏡で星が識別できる」と記している。

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M74 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1780年9月末にピエール・メシャンによって発見された。メシャンは「この星雲には星がない。かなり大きく非常に微か。みるのは酷く難しい。よく晴れた霜を置くような夜にはっきりするだろう」と記したシャルル・メシエは「うお座η星に近い星のない星雲で、1780年9月下旬にメシャンが見たとおりである」とした。ジョン・ハーシェル1864年ジェネラルカタログに「球状星団で、微かで非常に大きい。中央周辺から急に明るくなっている。部分的に分解される」とした。1848年ロス卿は「渦状か?渦状という自信がある。中心部は星からできている。たやすく見え星雲通じて星がある」と記したロス卿により渦巻構造確認され14銀河一つである。

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黒眼銀河」の記事における「観測史」の解説

1779年3月23日イギリスエドワード・ピゴットによって発見された。また、そのわずか12日後の同年4月4日には、ドイツヨハン・ボーデによって独立発見されている。翌年1780年3月1日にはシャルル・メシエ独立発見したしかしながら、ピゴットの発見1781年1月11日ロンドン王立協会読まれたときに公表されたに過ぎず、これはボーデ発見1779年に、メシエ発見1780年晩夏発表され後のことであった結局、ピゴットの発見多かれ少なかれ無視され2002年4月になってようやくブリン・ジョーンズによって見出された。 暗黒帯は、1785年1789年2度ウィリアム・ハーシェルによって確認され、「黒眼」にたとえられている。

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テンペル第1彗星」の記事における「観測史」の解説

テンペル第1彗星1867年4月3日エルンスト・テンペルによって発見された。発見当時公転周期は5.68年であり、その後1873年1879年観測されていったテンペル第1彗星木星接近して摂動の影響を受けやすい軌道にあるため公転周期変動する1881年には木星接近したため軌道変化起こり公転周期6.5になったうえ、近日点距離長くなってしまったため1898年1905年テンペル第1彗星写真撮影する計画があったが失敗終わったテンペル第1彗星観測されずに13太陽周囲公転し1967年になってやっと再発見された。まず、ブライアン・マースデン木星摂動考慮したうえでの軌道正確に計算した。彼は1941年1953年テンペル第1彗星木星接近したことにより近日点距離は縮まり、公転周期発見当初よりも短いことに気付いた。これらの接近テンペル彗星木星は1:2で軌道共鳴するようになった1967年回帰観測には不向きな状況だったがエリザベス・レーマー写真の撮影成功した最初写真からテンペル第1彗星を見つけることができなかったが、1868年後半再度確認したところ、1967年6月8日写真18等級映っていることが分かった。ただし、このときの回帰では1回しか撮影できなかったため軌道の計算はできず、次の回帰を待つほかなかった。 1972年回帰になると1月11日にはレーマーL. M. Vaughnはスチュワード天文台テンペル第1彗星観測成功した見かけの等級5月後半には11等級にまでなり、7月10日まで観測続けられた。この回帰以来周期5.5年で回帰のたびに観測されている。

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オメガ星雲」の記事における「観測史」の解説

1746年ジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾーによって発見されたが、彼の発見はあまり世に知られなかった。 メシエは「星を含まない星の筋で、長さは5'〜6'。紡錘形をしていてアンドロメダベルトにあるものに似ているが、非常に淡い」と記している。ウィリアム・ハーシェルは「壮大明るくて非常に大きく、たいへん不規則な形をしており、『2』の字のように曲がっている」と記している。オメガの名前は、ルイス・スウィフトギリシア文字オメガ似たスケッチ書いたことに由来する白鳥たとえたのはジョージ・チェンバーで棒状長いガス部分白鳥の胴体みなしている。カミーユ・フラマリオンはこの長く伸びた12光年にわたる構造を「風によって気ままからまった煙の流れ」にたとえている。 2004年にはヨーロッパ南天天文台などの観測により、オメガ星雲中の若い大質量星周りに、直径が2万天単位これまで最大級降着円盤発見されている。

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M71 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1745年から46年にかけて、ジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾーによって発見された。1772年から79年にかけて、ヨハン・ゴットフリード・ケーラー(英語版)が独立して発見し「非常に青白い星雲状の光斑」としている。ジョン・ハーシェルは「たいへん大きく星数が多い。星の光度は1116等」と記している。写真観測ロベールは「星が曲がりくねってつらなり渦状星雲似ている周囲には17等級以下の星が曲線をつづる様子渦状運動によって出来たではないか思われる」と記している。

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M35 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1745年から46年にかけてジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾー発見した。シェゾーは「ふたごの北の足の上にある星団」と記録残している。また、1750年以前ジョン・ベヴィス独立して発見している。1764年シャルル・メシエは「カストール左足にある非常に小さな星集団」と記している。

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M4 (天体)」の記事における「観測史」の解説

ジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾー1746年発見し1764年シャルル・メシエ最初カタログ記載している。シェゾーは「アンタレス近くこれに先行する白く丸く小さい。以前発見されていないと思う」とした。1751~1752年ラカイユケープタウン見て、「微かな彗星小さなのようだ」とした。1764年メシエは「非常に小さな星から成る星団機械が悪いと星雲状…」とした。1783年ウィリアム・ハーシェル10フィート反射鏡初めて星に分けて見た。彼は200程度の星を認めており、また南北を走る星の群れを「かなり明るい8ないし10個の星のなす尾根」と表現している。スミスはこの星の群れを「中心を走るまばゆい光」と表現している。猫の目連想する人もいる。 アンタレスの西にあり、小型望遠鏡でも比較的、観察が行いやすい。球状星団としてはまばらである。空の条件良ければ肉眼天の川中に見ることができるくらい明る球状星団である。ただ、同じ球状星団のM2やM3よりも明るいにもかかわらず1等星アンタレスが西に1.5°にあるため、それらより見えにくい球状星団としてはまばらで、黄色みがかって見えるのが特徴である。丸く対称な形をしているにもかかわらず、1ダースほどの1012等の星の群れ北から南に走っている。これがハーシェルの言う「尾根」である。口径20cm程度望遠鏡中心部分の星も見えはじめるが、空の状態によって見え方が変わる星団だとも言われている。

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わし星雲」の記事における「観測史」の解説

1745年ジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾーによって星団発見され1764年シャルル・メシエ背景星雲発見した。しかし、メシエ同時代観測者比較して貧弱な機材しか持っておらず、M15 などのように発見者星団分離できた場合でもメシエ星団分離できず星雲状見ている場合多々ある

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M110 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1773年8月10日シャルル・メシエ発見したメシエとは別にカロライン・ハーシェル1783年8月27日独立発見している。

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M47 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1654年以前ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナ発見しているが、1984年までその業績知られていなかった。 シャルル・メシエ1771年2月19日独立発見し、隣のM46よりも明る星団として記録したが、メシエM47座標計算した際に符号を誤るというミス犯した。そのため、1959年に T.F. Morris がその誤り正すまで失われた天体であったM47に関するメシエミスについては、「1934年にオズワルド・トーマスにより、メシエ位置測定時に+と-の記号取り違えて計算したことが確認された。」とする説もあるが、これはM48混同したのであるとされるメシエミスをした結果ウィリアム・ハーシェル1785年2月4日独立して発見し、H VIII.38 という符号付けている。なお、メシエミスにもかかわらずカロライン・ハーシェル1783年までに少なくとも2回M47観測しM47認識している。

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M66 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1780年3月1日M65同時にシャルル・メシエによって発見された。メシエは「たいへん微かM65極めて近い。二つとも同じ視野見える。1773年11月1日から2日にかけてこの間通った彗星の光のためにこれらを見逃した違いない」としている。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「明るのある星雲北西から南東方向伸びている。M65先行する」とした。ロベールは「はっきりした星状のを持つ渦状極の方は変動があり、そこで星のような12個の星雲状の凝縮した箇所がある」とした。クラークは「入り組んだ包み並び、その一部はちょう近日点に近いまるい彗星頭から飛び出した放射線状のベールにやや似たとりかこまれている」とした。 M66では、SN 1973R、SN 1989B、SN 1997bs、SN 2009hd の4つ超新星観測されている。

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アケルナル」の記事における「観測史」の解説

アケルナルは、現在1等星とされる21個の恒星のうち、古代ギリシャ人に知られていなかった唯一の星であり、西洋観測記録最後に登場した1等星である。 地球の歳差運動により、紀元前3400年頃のアケルナル赤緯-82.60度と天の南極近くにあったとされる。したがって古代エジプト人は、その存在知らなかった西暦100年でも、赤緯は-67度で、アレクサンドリアにいたクラウディオス・プトレマイオスもその存在知らなかった一方エリダヌス座θ星は、クレタ島北側観測出来た。よって、プトレマイオスエリダヌス座南端をθ星としていた。アケルナルが、アレクサンドリア観測出来ようになったのは、1600年であったアケルナル記載した最初星表は、オランダ航海者ペーテル・ケイセルインド洋航海した際に遺した記録参考ヨハン・バイエル作成したウラノメトリアであった2000年3月までは、アケルナルフォーマルハウトが共に他の1等星から天球上で最も離れた位置にあったそれ以降は、さそり座アンタレスが他の1等星から最も離れた位置にある。ただし、アンタレスを含むさそり座には多く2等星があるが、アケルナルフォーマルハウト周囲には明るく見え恒星がない。 アケルナルその後歳差運動により数千年かけて北上しており、8,000年から11,000年後には、其の最北点に達しドイツイングランド南部付近に見えるようになるといわれている。因みに今のアケルナル九州四国以南なければ見えないYouTubeビデオより、大分県観測されことがある台湾などのところではアケルナル5度位あるので、と高い建物なければ都心でも余裕見える。

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M80 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年フランス天文学者シャルル・メシエ発見したメシエは「星のない星雲中心部明るく、まるく小さな彗星のよう。星雲状の物質かこまれている」と記したウィリアム・ハーシェルは「M80としてよく知られているが、私が記憶しているもののうちでは、最も密集したもののひとつである」とした。ジョン・ハーシェルは「球状星団でまるく中心がよく輝いて周囲から急に明るくなっている。星の光度は14等でみなよく分かれる」と記した1860年5月21日に、星団中央に7等の新星出現した。これはベルリンアルトゥル・アウヴェルスによって発見されさそり座T星と名付けられた。1854年にはこの近くに、さそり座R星、さそり座S星といった変光星フランス天文学者ジャン・シャコルナクによって発見されている。

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M76 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1780年9月5日ピエール・メシャンによって発見された。「星を含まない小さくて微か」と記している。同年シャルル・メシエは、「アンドロメダ右足星雲1780年9月5日メシャンが観測している。彼は色消し望遠鏡探し星雲状物質をふくむ小さな星団にみえた」とした。ウィリアム・ハーシェルは「分解されない二重星」として、これを2つ天体認識したため、NGCナンバー2つつくことになったウェッブは「青白い青雲二重M27奇妙なミニチュア」とした。ロス卿は「渦状連続した隆起刈り入れ用の鎌のよう」とした。フェーレンベルクは「大口径での写真ではコルク栓のようだNGCカタログでどうして2つ分かれているか分からない」とした。

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M46 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1771年2月19日フランス天文学者シャルル・メシエ発見したメシエは「大の頭と一角獣見えない足の間にある、非常に小さな星集まり良い反射望遠鏡でないと識別できない。わずか星雲状のものをふくむ」と記した

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高速電波バースト」の記事における「観測史」の解説

最初に検出され高速電波バーストである FRB 010724、通称「ロリマー・バースト」は、2001年7月24日パークス天文台によって記録されたアーカイブデータの中からダンカン・ロリマーとデイビッド・ナルケヴィッチによって2006年検出された。発見者の名前からロリマー・バースト (Lorimer Burst) とも呼ばれる。これ以降も、多く高速電波バースト過去記録されデータの中から発見されている。 2013年4つ高速電波バースト発見されいずれも銀河系外天体由来である可能性示唆された。2016年には、2012年検出され高速電波バースト FRB 121102 が不規則に反復してバースト起こすことが確認された。FRB 121102は、約30光年の距離にある銀河にあることが確認されている。2017年検出され高速電波バースト FRB 171209 は、2011年検出されガンマ線バースト GRB 110715A と関連があるとする説が出されている。 2020年4月28日こぎつね座軟ガンマ線リピーター SGR1935+2154と同じ方向から、150ジャンスキー/ミリ秒 (Jy/ms) を超えるフルエンスを持つミリ秒単位時間スケール高速電波バースト (FRB 200428) が検出された。前日4月27日夜、このマグネターからのX線バーストニール・ゲーレルス・スウィフトによって検出され、さらに数時間わたってフェルミガンマ線宇宙望遠鏡国際宇宙ステーション設置され中性子星観測装置NICER英語版)により、数回X線バースト検出されていた。このように高速電波バーストの他波長応天体が観測されたのは今回初めてである。また、この高速電波バースト分散量度がかなり低かったことから、天の川銀河の中で発生したものと考えられた。既知高速電波バースト比べると、FRB 200428は本質的な明るさでは何千倍劣っていたが、その近さから最も強力な高速電波バーストとなり、数千から数十ジャンスキー (Jy) のピークフラックスに達し、同じ周波数ではカシオペヤ座Aはくちょう座A(英語版)といった電波源匹敵する明るさとなった。この高速電波バースト観測結果から、依然としてその発生機構未知のままではあるものの、少なくともマグネター高速電波バースト発生源1つであることが確定した

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M61 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1779年5月5日にバルナバス・オリアニ(英語版)が彗星観測中に発見した。オリアニは「非常に青白く彗星そっくりである」と記録残している。同じ日にシャルル・メシエ観測していたが、メシエ当初彗星であると勘違いしていた。メシエ6日後の5月11日彗星ではないことに気付き、「星雲極めて微かなので識別困難」と記録した。も彗星検索中に発見している。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「大きな青白い星雲極めて微光だが、メシエ3.5フィート望遠鏡同定したのは何とも驚きで、興奮さえする。私の器機では条件良いときのみ中央が輝くのが見えたウィリアム・ハーシェル望遠鏡ではが2個あるのを見たが、間隔90"で4個の微光星が後続する」とした。ロス卿は「2個のがあり、中央明るく渦状10'に他の星雲北後続」とした。

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みずがめ座R星」の記事における「観測史」の解説

みずがめ座R星は、独リリエンタール英語版)にあるヨハン・シュレーター観測所助手務めたカール・ハーディングが、1810年発見したみずがめ座R星という名称は、変光星命名方法において、みずがめ座最初に確認され変光星であることを示す。 みずがめ座R星は、一見して1年3週間周期で6等から11等まで変光する、普通のミラ型変光星のように思われた。しかし、1919年10月ウィルソン山天文台での分光観測によって、みずがめ座R星スペクトルは、輝線も示すミラ型星スペクトルだけではなく星雲みられる輝線含まれることが明らかになった。更に、大型望遠鏡による分光観測繰り返されミラ型星スペクトル星雲輝線加えOB型星のような青い高温連続光成分が含まれていることがわかってきた。このような赤色巨星スペクトル高温ガス輝線同時に観測される天体は、共生星呼ばれるその後、変光そのものに関しても変光幅が突如小さくなる現象確認されミラ型星以外に変光に寄与する成分があることがわかった紫外線観測衛星による観測で、星雲成分高温度星成分スペクトルの詳しい性質わかってくると、みずがめ座R星系には高密度の小さなガス集合体白色矮星存在し連星系であると考えられるようになった一方、星周領域では、1921年11月ローウェル天文台撮影され写真から、星雲状構造存在明らかになった。その後ハッブル星雲膨張検出しバーデ時間をおいて撮影した写真比較から、膨張していることを証明した1980年代になると、可視光電波で、星雲状構造内側ジェット存在発見された。その後20世紀前半ローウェル天文台撮影されみずがめ座R星写真乾板にも、ジェット構造写っていたことがわかった

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M19 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1764年フランス天文学者シャルル・メシエ発見したメシエは「星のない星雲3.5フィート望遠鏡たやすく見ることができる」と記している。1784年ウィリアム・ハーシェルM19分離して見る。「すばらし球状星団。非常に明るい」と記している。

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M15 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1746年ジャン・ドミニク・マラルディがド・シェゾー彗星(C/1746 P1)を観測中に発見した。M2 を発見した5日後であった。彼は「星雲状でかなり明るく大きな星がある」と記している。シャルル・メシエ1764年に「星のない星雲。まるく中心部が輝く」と記しており、高名なメシエ機材の方が貧弱であったことを示している。

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観測史

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ソンブレロ銀河」の記事における「観測史」の解説

1783年5月6日フランスピエール・メシャンの手紙にこの天体発見したことが記されている。M104メシエカタログ初版発行後に追加され最初天体である。シャルル・メシエ自身1784年自分カタログ手書きでこの天体のことを「非常に淡い星雲である」と追記している。1784年5月9日にはイギリスウィリアム・ハーシェル独自に発見している。彼は「微かな拡散した楕円光芒。角を分け間隔があり星雲大部分はその上方にあるのが明瞭である」として暗黒帯の存在初め記録した1912年アメリカヴェスト・スライファーが、M104の光が大きく赤方偏移していることを発見、この時の赤方偏移の量からM104地球から約1,000km/sの速度遠ざかっていることが明らかになった。この速度銀河系内部属する他のどんな天体よりも速いものであった。この発見は、M104銀河系内の星雲ではなく銀河系外天体であること、また宇宙あらゆる方向膨張していることを示す最初の手がかりとなった

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M92 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1777年ヨハン・ボーデによって発見された。ボーデは「ややまるく、青色光によって囲まれている」としている。1781年シャルル・メシエは「はっきりし、きれい。非常に明るい。1フィート望遠鏡楽に見える。星は含まない中心部明るく大きな彗星似ている大きさ明るさM13にかなり似ている。径5'」とした。ジョン・ハーシェルは「球状星団で微星に分かれる」とした。スミスは「微星の集まる球状星団大きく明るい。中心部は輝く。よい視相では外形は不規則。端のほうは流れている」とした。 マラス中心部の星を口径10cmの望遠鏡倍率214倍で見えた報告した通常ざらざらとした感じで見ることができる。口径20cmの高倍率で個々の星に分かれ、ややゆがんだ姿もわかるという。ただ気象条件左右されやすく、ロス卿でさえ全部を星に分けて見ていない。ジョーンズ口径20cmの望遠鏡全ての星を分離したと言い、やや東の方が平らで南北方向僅かに長くなっているとしている。通常口径30cmの望遠鏡全ての星を分離できる

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観測史

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M107 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1782年4月ピエール・メシャン発見した1784年刊行されメシエカタログ第3版には記載されていなかったが、1947年ヘレン・ソーヤー・ホッグによってM105M106とともにメシエカタログ加えられた。 当初カタログ記載されなかったことからメシャンの発見世に知られず、1793年5月12日ウィリアム・ハーシェル独立発見している。ハーシェルは「非常に美しく星数多く密集し、径5'~6'。中心部むかって次第に星の密集度が高くなってくる。5個の明るい星がまわりにみえる」とした。

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観測史

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M23 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1764年6月20日シャルル・メシエ発見したメシエは「いて座の弓の端とへびつかい座右足の間、へびつかい座65番星の近くにある。この星団の星は互いにかなり接近している。」と記している。

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観測史

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M67 (天体)」の記事における「観測史」の解説

ヨハン・ボーデによると1779年までにヨハン・ゴットフリード・ケーラー(英語版)が発見したとされるが、ケーラー使った機器では星団として認識できず、「かに座αに近い楕円形の星雲」と記している。1780年シャルル・メシエは「かに座の南の爪で星雲状のものを交えた星の群れ」と記している。1783年ウィリアム・ハーシェルは「星に分解。非常に密集したまことにきれいな星団で、どんな望遠鏡でもたやすく見える」とした。ジョン・ハーシェルは「顕著な目標。非常に明るくて大きく星数多く1015等級」とした。カミーユ・フラマリオンは「とうもろこし一束」と表現している。

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観測史

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M24 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1764年メシエ発見し、「天の川中に星雲状のひろがりいくつかのパートにわかれ、さまざまな明るさの星が見られる」と記している。ジョン・ハーシェルは、この中NGC 6603を見て、「きわめて星が多く、よく集中している」と説明し以降混乱のもととなったドライヤーメシエがこの6603を見たかどうか疑わしいと言っている。ワレンクイストはカタログからこのスタークラウドは除外した

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観測史

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M39 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1764年10月24日シャルル・メシエ発見し星雲状のものは何一つなく、1°ほどの範囲広がっている」と記録残している。 紀元前350年頃にアリストテレスによって彗星のような天体として発見されていたとする説がある。また、1750年頃にギヨーム・ル・ジャンティ発見したとする説もあるが、それを疑問視する説も強い。

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観測史

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M30 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1764年8月3日シャルル・メシエによって発見された。メシエは「41番星に近い星雲で、3.5フィート望遠鏡でどうにか見える」としている。1783年ウィリアム・ハーシェルは「2つの星の流れがあり、4~5個の星がその流れ中にあるが、おそらく星団属しているのだろう」として、星雲ではなく星団として捉えた

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観測史

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M95 (天体)」の記事における「観測史」の解説

M96とともに1781年3月20日ピエール・メシャンによって発見された。 シャルル・メシエは「53番星の上にある星のない星雲微光」と記したジョン・ハーシェルは「明るく大きくまるい。中央があり、徐々に明るくなっている」とした。スミスは「視野NfSfの間にただ2個の星がある澄んだ白い色をした星雲星雲はまるく明るく北よりも南の方がはっきりとしている」とした。ロス卿は「2個の楕円形中心部はおそらく分解できる」とした。 2012年3月16日に、IIP超新星「SN2012aw」が発見された。偶然、超新星発生する直前M95写真撮影されており、超新星最初期の状態の観測が可能であった

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M85 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年ピエール・メシャンによって発見された。同年メシエは「星のない星雲かみのけ座11番星14番星の間で、おとめの耳に近い。非常に微かである」とした。スミスは「明るくやや大きな目中心部明るい」と記している。ダレストは「大きく明るくとにかく中心著しい。他の星雲後続する」としている。

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観測史

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M99 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年3月15日ピエール・メシャンによって発見された。M98、M99、M100はメシャンによって同時に発見されている。同年4月13日シャルル・メシエ座標計測し彼のカタログ第3版脱稿する直前カタログ加えたメシエは「星のない星雲で、青白くM98よりやや明るい。7等星と8等星の間にはさまれている」としている。ジョン・ハーシェルは「極めて目立つ目標明るくまるく中央明るい。3個の渦状部分からできている」とした。1848年ロス卿は「渦状明るい星が上にある星雲の薄い部分がこの星を横切ってある程度のびている。主なは下にあり、右方向旋回する」とした。ダレストは「大きく明るくピカピカきらめくは少し分かれる。端の方で拡散しているのがはっきりする」とした。

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WASP-13」の記事における「観測史」の解説

SIMBADデータベースによると WASP-13初め観測されたのは1997年で、これは銀河観測され領域天文学者恒星固有運動測定している際のことであった2006年11月27日から2007年4月1日の間に、カナリア諸島にあるスーパーWASPの SuperWASP-North 望遠鏡用いた観測が行われ、データ解析結果この恒星周り惑星公転している可能性示唆された。 その後イギリススペインフランススイスアメリカ合衆国天文学者によって、スコットランドにあるジェームス・グレゴリー望遠鏡光度計用いて追加観測が行われた。近く位置する明るい恒星 HD 80408 を比較星として用いた観測によって、WASP-13より良い精度光度曲線得られた。またフランスオート=プロヴァンス天文台にある望遠鏡設置され分光計 SOPHIE用いて恒星のスペクトルから、視線速度測定行われた。さらに北欧光学望遠鏡での観測でもスペクトル取得されWASP-13特性決定された。SOPHIEデータによって太陽系外惑星 WASP-13b を持つことが2008年判明し2009年報告された。 SIMBAD に基づくと、WASP-13発見から2010年の間に10報以上の論文取り上げられている。

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M98 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年3月15日ピエール・メシャンによって発見された。M98、M99、M100はメシャンによって同時に発見されている。 メシャンは「星のない星雲極端に微か」とした。1783年ウィリアム・ハーシェルは「大きくよく広がったきれいな星雲位置シャルル・メシエのいうM98相当してはいるが、この方記載では全体をよくみていないようである。微かな光が1/4°ばかりのびているのに注意していない。中心部には数個の星があるが、もっとあるようにも思われる。私の視野では星雲はみ出る」とした。ロス卿1850年中心核から両方向におなじくらい腕が出て次第微かに拡散している」とした。

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観測史

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M84 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年3月18日シャルル・メシエによって発見された。メシエはこの夜、球状星団M928つ銀河発見している。 メシエは「M84は星のない星雲で、中心部はかなり明るく、やや星雲状物質とりかこまれている。明るさ外観M59M60似ている」としている。ジョン・ハーシェル1868年カタログに「非常に明るく、かなり大きい。丸く中央急に明るくなっている。どうやら分離できる」とした。ハインリヒ・ダレストは「中心部がよく輝く。円形中心部次第明るくなっている。最小限直径3'。1013等星匹敵する星団密接して小さな青白い星雲が南に後続する」と記している。

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M100 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年3月15日ピエール・メシャンによって発見された。M98、M99、M100はメシャンによって同じ日に発見された。シャルル・メシエは「星のない星雲先行するアンドロメダの耳にあるのと同程度明るさM98、M99と共に微星なので非常にみにくい。天候がよいとき、または子午線通過の時だけ見える」とした。ジョン・ハーシェルは「中心明るく、そこには星の群れあるよう思われる」としている。スミスは「星雲真珠色周囲から次第中心部明るくなっているので球状星団思わせる視野では星雲周囲小さな4個の星が見え、他に小さな微光光点となってみえる」とした。ロス卿は「渦状中心部光り惑星状星雲のよう」とした。ロベール写真撮影渦状星雲であることをはっきりと確認した1901年1914年に14等級程度超新星撮影され、それが1917年カーティスによって確認された。

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M81 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1774年ヨハン・ボーデよってM82同時に発見された。ボーデは「M81は星雲状の光斑。やや円形で、中央部明るがある」と記した。その他、1772年から78年にかけてヨハン・ゴットフリート・ケーラー(英語版)によって、また1779年8月にはピエール・メシャンによってそれぞれ独立発見されている。1781年シャルル・メシエは「おおぐま座の耳に近い。4等5等星に平行しており、位置はこの星から決定した。やや楕円中心部はっきりしており、3.5フィート望遠鏡でよく見える」と記したジョン・ハーシェルは「顕著。非常に明るがある」と記した1889年ロベール写真から渦状星雲であることを確認しがあり、境界不明瞭星雲状物質の輪(わ)で囲まれている」と記している。ロス卿は「アンドロメダ星雲似て渦状というのは回転している状態だろう」としており、実際にM81は回転証明され最初銀河となった

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観測史

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M102 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年3月から4月にかけてピエール・メシャン発見したが、メシャンは2年後1783年5月書簡の中で「M101を見誤ったと」してM102発見を自ら否定している。メシエM102について「うしかい座ο星とりゅう座ι星の間にある非常に淡い星雲で、6等級の星に近接している」と記している。

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観測史

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M28 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1764年7月27日シャルル・メシエ発見したメシエは「星のない星雲3.5フィート望遠鏡では難しい。直径2'」と記している。後にウィリアム・ハーシェル初めて星に分解して球状星団であることを明らかにした。

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観測史

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M26 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1764年6月20日シャルル・メシエによって発見された。メシエは「明るいが口径1.7フィート望遠鏡でははっきりしない星雲状ではない」と記している。ジョン・ハーシェルは「個々星の光度は1215等。明るくきれいで星数が多い」としている。

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M32 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1749年10月29日ギヨーム・ル・ジャンティ発見した。ル・ジャンティは「18フィート望遠鏡M31観測中、他に径1'ばかりの小宇宙見つけた」と記している。

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観測史

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M37 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1654年以前ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナによって発見されているが、彼の発見世に知られなかった。ギヨーム・ル・ジャンティ1749年に同じぎょしゃ座にあるM36M38発見しているが、より規模大きく目立つM37見逃している。その後1764年9月2日シャルル・メシエ独立して発見したため、オディエルナの業績再評価されるまで発見者メシエとされていた。メシエは「M36にやや先行する小さな星並んで集まり接近し星雲状のものをつつんでいる。3.5フィート望遠鏡では星はみられない」と記している。

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観測史

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M93 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年シャルル・メシエによって発見された。メシエは「おおいぬ座と、とも座船首との間にある星団で、星雲状のものはない。径8'」とした。ウィリアム・ハーシェルは8~13等の星で構成されているとした。スミスは「海のひとでのような感じSp部分が一番明るく、星は7~12等」とした。ジョーンズは「羽を広げた」に見立てた。 シュバリエ・タンゴスはM93彗星まちがえフランツ・フォン・ツァハはこれを「天文学上、全く言語道断しくじりと言った。タンゴスはフランス人陸軍大尉1789年マルタ島観測所設立したが、亜燐酸実験観測所多数建物もろとも消滅させてしまった人物だという。またタンゴスは誰も再発見できない彗星発見したメシエ書き送ったり、彗星太陽面を通過したのを観測したと嘘の報告をした人物であるという。

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観測史

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M63 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1779年6月14日にメシャンが発見したシャルル・メシエは「メシャンの発見した星雲である。微かM59同じくらい。星を含まない測微尺僅かな照明消える。近くの8等星星雲先行する」とした。ウィリアム・ハーシェルは「非常に明るくNpからSf方向広がる。よく輝くがある」とした。

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M60 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1779年4月11日に、ヨハン・ゴットフリート・ケーラー(英語版)が彗星観測中にM59とともに発見した。その翌日イタリア天文学者バルナバス・オリアニ(英語版)はM59見逃したもののM60独立して発見している。ケーラー発見4日後の4月15日にはシャルル・メシエM58M59同時に発見している。メシエは「M58M59よりはっきりしている。3個の星雲に星を含まない」と記している。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「二重星中心距離は2'~3'。先行する方はひどくかすか。明るい方がこれに後続する1779年メシエ記載は不完全である。北と南に1個ずつ星が置かれ93倍の視野小さな星にぎやかだM59北西は縁と上部小さな方が見え、実に4個の星雲一度見える」と記したウェップは「二重星後続する方は極端に微かで、3.7インチでは見えない。広視野M59北西南西にぼんやりとしたもの見える」とした。

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M73 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1780年10月5日6日シャルル・メシエによって発見された。メシエは「ちょっと見たところ3~4個の微星の集まりで、星雲状物質をふくみM72と平行」とした。ジョン・ハーシェルは「星団極めて貧弱星雲状物質はない」と記したウィリアム・ヘンリー・スミスは「貧弱な視野に3個の10等星。」とした。

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観測史

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M21 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1764年6月5日シャルル・メシエ発見したメシエは「前のもの(M20)の近くにある星団知られている星でこの2つ星団最も近いのは、いて座11番星である。この2つ星団には8等ないし9等の星が含まれ星雲状の物質つつまれている」と記している。ウィリアム・ヘンリー・スミスはそれを受けてメシエの言う星雲状物質というのは微星の集合指している」と記している。ジョン・ハーシェルジェネラルカタログに「とても多くの星からなり、星の集まり方のまばらな星団。9等から12等の星からなる」と記している。

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観測史

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M75 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1780年8月27日ピエール・メシャンによって発見された。メシャンは「星のない星雲」としたが、同年10月メシエは「星雲交えた微星の集合」と記している。ウィリアム・ハーシェルは「肉眼見えないが、ファインダーに映る。M3の小型版のようで、星に分解され青白く見える」と記したウィリアム・ヘンリー・スミスは「きらきらと輝く数個の星に混じって澄んだ白い光塊」とした。

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観測史

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オーロラ」の記事における「観測史」の解説

日本の観測史については後述

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観測史

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環状星雲」の記事における「観測史」の解説

1779年フランスのアントワーヌ・ダルキエ・ド・ペルポワ(英語: Antoine Darquier de Pellepoix)が口径約3インチ望遠鏡彗星観測していて偶然に発見し大きさ木星ほどで、惑星をうすめたような感じで、ぼんやりしているが輪郭はっきりしている」と記している。数日後シャルル・メシエも同じ彗星観測中に発見し「γとβの間にあり、光のシミのよう。ここを通過した彗星追跡中に見つけたが、形はまるく非常に微かな星から構成されているに違いない。しかし、良機でこれらの星をはっきりさせることはできず、ただの推測に過ぎない」と記している。両者ともリング状の形態観測していない。 ウィリアム・ハーシェルは「穴の開いた星雲で、中心部に暗い星があり、おそらく星からできたリングであろう楕円形長短軸の比は83:100。この光は分解される性質のもので(すなわち、まだらで)、北側には3個の非常に微かな星、そして南の部分は1~2個の星が見られる」とした。ジョン・ハーシェルは「環の内部は、微かではあるが星雲状の光で満たされており、タガの上ガーゼ貼っ感じがする」とした。ロバート・ポールは「たばこの煙でできた環のようだ中に穴のある星雲」とした。ロス卿は「とくに短軸方向分解されそうな気配示し、そこに隙間があり、空間入り込む状のもので破損しているように見える」とした。

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観測史

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M41 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1654年ごろにジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナ発見している。しかし、紀元前325年頃にアリストテレス著書気象学』の中で「尾のある星」と記した可能性指摘されている。オディエルナの発見世に知られず、1704年ジョン・フラムスティード1749年ギヨーム・ル・ジャンティによって独立して発見されている。フラムスティードは「おおいぬ座12番近く星団」とだけ記した。ルジャンティは「大の首ちかく、8フィート焦点距離思われる)の器械見たときだけ星が識別できるが、2~3フィート器械ではただの星雲状にしか見えない」と記した

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観測史

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はくちょう座スーパーバブル」の記事における「観測史」の解説

1980年に、NASA高エネルギー天文衛星HEAO-1搭載されX線観測装置A2:CXE (Cosmic X-ray Experiment) の観測データから発見された。超新星爆発による泡構造は、通常光年から100光年を少し超える程度直径だが、この泡構造当初直径450 パーセク(約1,500光年)と見積もられ発見当初からその成因について議論分かれた発見者Webster Cashらは、300万年から1000万年の年月をかけて、30 - 100個の超新星爆発によって段階的に形成されたとする説を採った。一方Abbottらは、この付近に位置するはくちょう座OBアソシエーション (Cygnus OB2) の恒星恒星風によって形成されたとする説を採った。旧ソ連のBlinnikovらは、1052 - 1053ergのエネルギー発生させた単一超新星爆発よるものとした。その他、このスーパーバブル単一成因による構造ではなく超新星残骸Cygnus OB2の恒星風など複数の要因による複合体であるとする説も出されていた。 2013年国際宇宙ステーション日本実験棟「きぼう」の船外実験プラットフォーム搭載され全天X線監視装置 (Monitor of All-sky X-ray Image, MAXI) の観測データから、200 - 300万年前に起きた極超新星痕跡であるとする研究結果発表された。この研究では、ROSAT観測データ精査し結果から、複数領域水素柱密度 (hydrogen column density, NH) の値がよく似た傾向示したことから、単一成因よるものとした。また、Cygnus OB2はこのスーパーバブル中心から離れたところにあり、球対称な泡構造形成するには不適であるとした。極超新星は、太陽数十倍の質量生まれた大質量星起こす超新星爆発で、天の川銀河では数十万年一度程度しか起こらない非常に珍しい現象である。系外銀河では数件の発見事例があったが、天の川銀河内では痕跡含めて発見されたことがなく、史上初の発見例となった

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観測史

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M56 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1779年1月19日シャルル・メシエにより発見された。同日メシエ彗星発見している。同23日メシエは「星のない星雲。ほとんど輝きはない」と記している。後にウィリアム・ハーシェル1783年から84年観測で星を分離して観測している。

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観測史

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M40 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1660年初めヨハネス・ヘヴェリウス記録し続いて1733年ウィリアム・デラムが、さらに1792年モーペルテュイリスト加えているが、その位置星雲状の天体はなかったとされている。 メシエ1764年10月24日から25日にかけてこの位置に二重星認め、後にメシエカタログ加えた。「(彼の望遠鏡のうち)6フィート単レンズ屈折望遠鏡では分離難しいことから、ヘベリウス星雲として見誤ったものと推測される」と記載されている。 ヨハン・ボーデおおぐま座δ星の近く星雲包まれたような重星見た報じたが、カミーユ・フラマリオンは、そこには星雲星団もないとして存在認めなかった。チェコ生まれスロバキア天文学者アントニーン・ベチュヴァーシュ星表位置だけを示して説明はつけなかった。 各天文家観測位置2000年分点修正した結果を以下に示す。 ヘヴェリウス (1660年) 赤経 12h 31m 赤緯 58° 27' メシエ (1746年) 赤経 12h 22m 赤緯 58° 5' フラマリオン (1919年) 赤経 12h 24m 赤緯 57° 33' ベチュヴァーシュ (1964年) 赤経 12h 35m 赤緯 58° 13'

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M53 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1775年2月3日ヨハン・ボーデ発見したボーデは「かみのけ座10番星の東。新星望遠鏡とおして、まるく綺麗で鮮やか」と記している。ウィリアム・ハーシェルは「これまで記憶にあるものの中では、最も美しいながめの一つ充実したのような形にみえ、ぎっしりとつめこまれて光り輝きその周辺を無数の微星がとりまいている。M10似ている」とした。ジョン・ハーシェルは「星がまばらにつらなりの短い足のようである」とした。ロス卿は「一点凝集していない。この小さな範囲に4~5カ所の集中点がある」と記したハーロー・シャプレー変光星50発見し続いてカフェイは46追加した

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M50 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1772年4月5日シャルル・メシエ発見した。しかし、ジャック・カッシーニ記録によると、ジャックの父のジョヴァンニ・カッシーニ1711年以前発見していたともされる1774年ヨハン・ボーデは「カッシーニおおいぬ座こいぬ座の間にあるという星団探し、ついにいっかくじゅう座の腹の下で発見した星雲状のの上小さな星がある星団で、西に4個の小星がある」と記している。ジョン・ハーシェルは「顕著な星団。非常に大きく星数が多い。星の等級1216等」と記した

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M49 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1771年2月19日フランス天文学者シャルル・メシエ発見したおとめ座銀河団銀河として初め発見されたものであり、局部銀河群の外の銀河としてもニコラ・ルイ・ド・ラカーユ発見したM83に続いて2番目に発見され銀河である。1779年にはオリアニ(英語版)が独立発見し、「非常に青白く彗星の頭のようである」と記録している。ウィリアム・ヘンリー・スミスは、彼のベッドフォード・カタログの中でオリアニとメシエ発見混同し、「1771年にオリアニが発見した」と記載してしまった。この誤りジョン・ハーシェルジェネラルカタログにも引き継がれジョン・ドレイヤーニュージェネラルカタログでようやく修正された。

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M2 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1746年9月11日ジャン・ドミニク・マラルディが C/1746 P1英語版)を観測中に発見した。彼はその5日後にM15を発見し天文学への道に進んだが、生涯発見できたのはその2つだけだったという。マラルディは「まるく周辺が明らかで中心部4'~5'におよぶ。かなりの間隔をおいて周囲に微星が見える。そこにみえている小白点は小口径では認識できないような微星の集合であろう」と記述している。マラルディの発見からちょう14年後の1760年9月11日シャルル・メシエによって再発見された。メシエは「星雲、星ではない。中心部はよく輝き、まるく光にとり囲まれる彗星のよう」とした。ウィリアム・ハーシェル初めて星に分離し50フィート望遠鏡で見ると、極端な星の集合すばらしい微星」とした。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「きれいな球状星団。この優雅な星団中心部密集して実にきれいな球を作っている。この星団世界で見られる生き生きとした無数の星々想像せずにいられない」とした。ロス卿は「星がのようにつらなり、直角方向伸びている」として、星が周辺部連なり伸びているスケッチのこしている。

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M96 (天体)」の記事における「観測史」の解説

M95とともに1781年3月20日ピエール・メシャンによって発見され同年3月24日シャルル・メシエカタログ記載された。メシエは「しし座にある、星のない星雲で、M95に近いがM95ほどはっきりしないおとめ座のM84やM86似ている」とした。ジョン・ハーシェルは「非常に明るくまた大きい。やや楕円をしている。中央急に明るくなっている。とした。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「まるいがM95の方がはっきりしている。大きく青白い」とした。

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シュワスマン・ワハマン第3彗星」の記事における「観測史」の解説

1930年発見後にこの彗星はしばらく行方不明になり、1979年8月になってパース天文台天文学者らによって再発見された。1985年から1986年回帰では再度観測されなかったが、1990年回帰では再び観測された。 1995年回帰では地球接近する距離が1 auよりも大きかったため、観測適していないだろうと予測されていた。しかし、10月初めに彗星核分裂起こし、これに伴って大きく増光した。このバーストによってA - Dの4個に分裂した2001年回帰時にはA、D消滅確認され新たにE発見された。2006年回帰では、ロイ・A・タッカーによってB、CのほかにGが発見された。さらに多数小さ発見され、Bから分裂した考えられるH、J、K、L、M、P、Q、R、S、T、U、V、W、X、Z、AA、AB、ACADAEAFAGAHAIAJAKAL、AM、AN、AOAPAQAR、Cから分裂した考えられるAS、AT、Eが分裂したものと考えられるN、Yが確認された。 彗星分裂2006年4月下旬から5月上旬にかけて地球に大接近し5月12日にはC地球から0.0783 au(約1170km)の距離を通過した。最接近時にはC2等級、B5等級、E5等級にまで明るくなる期待されていたが、実際核の分裂進んだせいかC5等止まりであった[要出典]。 核の分裂様子地上天文台およびハッブル宇宙望遠鏡スピッツァー宇宙望遠鏡などによって観測され解析進められた。スピッツァー宇宙望遠鏡は、赤外線撮影により彗星ダストトレイル撮影成功した1930年地球からこれ同程度の距離を通過した際には1時間6070程度流星群突発出現観測されヘルクレス座τ流星群命名された。他にうしかい座α流星群うしかい座ε流星群といった小規模な突発群も同時期に観測され、この彗星との関連指摘されている。しかしPaul Wiegert(英語版)他による研究では、2006年接近時にはこのような流星出現する可能性小さいと予想され結局それらしき流星出現せずに終わった[要出典]。2022年2049年には観測できる程度流星群出現する予測されている。 2002年打ち上げられNASACONTOUR探査機2006年6月19日シュワスマン・ワハマン第3彗星接近して探査を行う予定だったが、2002年8月探査機との通信途絶したために探査計画失敗している。

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観測史

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M87 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年3月18日シャルル・メシエによって発見された。メシエはこの夜、球状星団M928つ銀河発見している。 メシエは「星のない星雲。8等星に近い。M84、M86同じくらいの明るさ」と記している。1864年ジョン・ハーシェルは「非常に明るく、かなり大きく丸い。中心部急に明るくなりそこにがある」と記したロス卿同様な感想記述している。

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桜井天体」の記事における「観測史」の解説

1996年2月23日配信され国際天文学連合回報で、アマチュア天文家櫻井幸夫が「ゆっくりと進行する新星可能性がある天体 (possible 'slow' nova) 」を発見したことを、日本人天文学者中野主一報告したこの中で櫻井1993年から1994年撮ったフィルムにも、1931年から1950年にかけてのハーバード・スミソニアン天体物理学センター記録にもこの天体が全く見られないにもかかわらず1995年1月から1996年2月にかけて徐々に明るくなっていることが報告されている。また、この回報の中でヨーロッパ南天天文台のステファノ・ベネッティとヒルマー・デュルベックらは「アウトバースト振幅光度曲線は、この天体が遅い新星、あるいは共生新星であることを示唆しているが、増光した1年後明確な輝線を欠くのは非常に珍しい」としている。 最初報告の後、デュルベックらは、櫻井観測した最後ヘリウムフラッシュ可能性がある天体」(‘possible final helium flash’)についての論文発表したその中で彼らは、桜井天体位置1976年発見され21等級の暗い天体位置相当するとし、1994年から1996年に再び観測され時に11から15等級まで明るくなったとした。測定され流束角直径星雲質量等の解析によって、5.5キロパーセクという距離や38太陽光度という光度決定された。専門家は、この値は見かけモデル予測とも合致するが、この領域爆発明るさは3,100太陽光度で、予測より3倍も低いことを指摘した最初赤外線観測については、1998年近赤外と遠赤外両方分光画像公開された。集められデータは、桜井天体増光モデルの予測どおりであることを示し、~680Kの温度星周塵存在することが発見された。さらに2000年公開されイギリス赤外線望遠鏡による赤外線データから、吸収線変化発見について議論された。

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ネイト (衛星)」の記事における「観測史」の解説

1672年カッシーニ金星近く小天体らしきもの見つけたが、その時自分観測にさほど注意を払っていなかった。ところが、1686年金星の衛星しきもの再発見したことによって、その存在性公表した金星の衛星のような天体は、その後長きにわたり多く天文学者によって観測報告提出された。例えば、 1740年ジェームズ・ショート 1759年:アンドレアス・マイヤー 1761年ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ などである。1761年には1年間だけで5名の観測者によって計18回もの観測例報告された。その中には、Scheuten による6月6日生じた金星の太陽面通過時に太陽面に金星続いて小さな点が観測されたとするものも含まれていたが、イギリスチェルシーでこの現象観測していたサミュエル・ダンはそのような別の点を観測していなかった。1764年には2名の観測者によって8例が報告され1768年にはクリスチアン・ホレボーコペンハーゲンでの観測報告した。これらの観測からだいぶ経過して1875年ドイツショール (F. Schorr) がこの衛星観測試みたことを書き残している。

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ふくろう星雲」の記事における「観測史」の解説

シャルル・メシエ共同研究者であったフランスピエール・メシャンによって1781年発見された。「ふくろう星雲」と名づけたのはイギリスロス卿で、彼のスケッチ残されている。メシエは「メシャンの報告によると、見るのが難しく、特に測微尺の糸が光るときに見にくい」と記したウィリアム・ハーシェルは「径2'40"明るさは平等。へりは鈍くなっている。微かな中心部に2個」とした。1848年ロス卿は「中心部にややはなれた2つの星があり、それぞれのまわりはうす暗く渦巻きとりかこまれている」とした。ロス卿の6フィート望遠鏡観測したの顔のようだ記したスミスは「よくながめると木星ぐらいの大きさ濃淡がなく丸い」とした。ウェッブは「大きく青白注目すべき天体1850年以前2つ開口部それぞれに星が見えていたが、それ以降は1個だけ(見える)。」としている。

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M65 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1780年3月1日に、シャルル・メシエによってM66と同時に発見された。メシエは「非常に微かで星はない」としている。ウィリアム・ハーシェルは「非常に輝く星南北方向広がり12'。明るがあり、周り急に拡散している」と記したロス卿1848年に「奇妙な星雲左側明るがある。やや上方右側に条があり、渦状部分だけよく分かれる」とし、1854年には「片方に暗い場所があるようだ」とした。 2013年3月21日日本アマチュア天文家菅野松男によってII型超新星SN 2013am が発見されている。菅野はこの発見により彗星新星超新星新天発見三冠達成した

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M54 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1778年7月24日シャルル・メシエ発見したメシエは「非常に明る星団中心明るく星はない。口径3.5フィート色消し望遠鏡でよくみえる」と記したメシエは星に分離して見ることはできなかったが、ウィリアム・ハーシェル周辺部の星を少し分離しただけで、球状星団であるとは認識できなかった。ジョン・ハーシェルは「球状星団。非常に明るくまるく中心部周りから急に明るくなっている。星によく分かれ、主に15等級の星からできている。外周2.5'のところに14等星がある」と記している。

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ウォルフ・ライエ星」の記事における「観測史」の解説

1867年シャルル・ウォルフジョルジュ・ライエは、パリ天文台での観測中にはくちょう座領域にあるHD 191765HD 192103、HD 192641の3つの星のスペクトル中に連続スペクトルとは異なる、幅の広い輝線の帯があることを発見した。ほとんどの天体は、特定の周波数光エネルギー吸収する元素覆われているため、そのスペクトル中に吸収線または吸収帯を持つだけであり、幅の広い輝線の帯を持つこれらの星は明らかに特異な天体であったウォルフ・ライエ星スペクトル中の輝線帯の性質は、その後数十年間謎のままであったエドワード・ピッカリングは、この輝線水素異常な状態に起因するものとして理論化し、この「ピッカリング系列」の輝線半整数量子数置換されたときのバルマー系列似たパターンたどっていることがわかった。後に、これらの線は1868年発見されヘリウム存在起因することが示された。ピッカリングは、ウォルフ・ライエ星スペクトル星雲スペクトル類似性着目しウォルフ・ライエ星一部または全て惑星状星雲中心星 (CSPNe, center stars of planetary nebulae) であるという結論至った1929年までに、輝線帯の幅はドップラー効果よるものであり、従ってこれらの星を取り囲むガス視線方向300 - 2,400キロメートル毎秒速度移動しているに違いない考えられていた。結論は、ウォルフ・ライエ星絶えガス宇宙空間放出しており、星雲状ガスエンベロープ膨張引き起こしているということであった観測され高速ガス放出生み出す原動力は、恒星放射圧である。ウォルフ・ライエ星型のスペクトルを持つ星の多くがCSPNeであることはよく知られていたが、明らかな惑星状星雲その他の目に見える星雲とは全く関係のない多くウォルフ・ライエ星があることも知られていた。 ヘリウム加えカーライル・ビールズは、ウォルフ・ライエ星スペクトル中に炭素酸素窒素輝線があることを明らかにした。1938年国際天文学連合は、スペクトル中で窒素輝線炭素酸素輝線かのどちらが相対的に支配的であるかを基準として、ウォルフ・ライエ星WN型WC型区分した1969年には、強いO VI輝線を持ついくつかのCSPNeが新たな「O VI系列」あるいはOVI型としてとしてグループ化された。これらの星は後に典型的なウォルフ・ライエ星区別して[WO]星と呼ばれるようになった。少し後に惑星状星雲関連性のない似たスペクトルを持つ星が報告され最終的に種族Iウォルフ・ライエ星にもWO型分類採用された。

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大赤斑」の記事における「観測史」の解説

ある程度望遠鏡精度向上した1665年発見された。しかし、1664年5月にはイギリス天文学者であるロバート・フックにより、木星表面に渦が存在することが既に確認されている(なお、フック観測した渦は赤道北部位置しており、南に位置する現在の大赤斑とは異なると考えられている)。1665年から1713年まで、および、1831年から現在までの間は断続的に観測されている。しかし、1714年から1830年までの間は観測されておらず、1665年観測され大赤斑現在の大赤斑異な可能性もある。

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オーバルBA」の記事における「観測史」の解説

1939年3つの白斑発見され、エルマー・リーズ (Elmer J. Reese) によりオーバルBCDEFA命名された。 1998年BCDE融合しオーバルBEとなった2000年BEFA融合しオーバルBAとなった2005年から、徐々に赤くなり始めた2006年赤斑となって初め大赤斑とすれ違ったが、目に見えた変化はなかった。2008年オーバルBA大赤斑・小赤斑が、ほぼ同時に互いにすれ違う現象起き、小赤斑その影響消滅した

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M25 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1745年から46年にかけてジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾーによって発見された。シャルル・メシエは「3.5フィート望遠鏡では難しい。星雲状物質は見つからない」と記している。

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M58 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1779年4月15日彗星観測していたシャルル・メシエによってM59M60と共に発見された。メシエは「おとめ座の非常に微かな星雲で、3等星とほぼ平行している。測微尺の糸がちょっとでも光と消えてしまう」と記している。最初期渦巻き状の構造発見され銀河一つで、1850年ロス卿がまとめた「渦巻星雲 (spiral nebulae) 」14個の中の一つとして記録されている。1864年ジョン・ハーシェルは「明るく大きく、不正円形。中央部すばらしく明るい。どうにか分かれそう。むしろ星がにじんだ感じだ」と記した

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子持ち銀河」の記事における「観測史」の解説

子持ち銀河1773年10月13日シャルル・メシエ発見した。「星はなく非常に微か」と記している。伴銀河ピエール・メシャン1781年3月21日発見したメシエ1781年発刊したカタログで、「二重で、その各々がよく輝く中心部持ち両者は4'35"離れている。二つの「大気」は触れ合っており、片方が暗い。」と記している(同様にジョン・ハーシェル1889年M51中央部円形部分と外のリング二重となっているスケッチ残している)。同じ1781年ヨハン・ボーデは「小さく微かに輝く。おそらく楕円」と記したジョン・ハーシェルは「我々の世界同じだ思われる取り巻く暈は銀河系表現する」とした。スミスは「明るく白い一対星雲それぞれ持ち惑星物質お互いに入れ込んで、南の方は中心部輝き光輪とりかこまれ水平になった時の輪のある土星ゴースト似ている。我々が属す同じような星の宇宙数えきれぬほどの能力のあるものが住んでいるにちがいない」とした。スミスコア取り巻微かな4本程度の短い湾曲したのようなものをスケッチ描いている。 この銀河銀河渦巻構造1845年にはじめて観測され銀河であり、ロス卿による観測スケッチ残っている。「渦状高倍率では一層複雑な構造分かる大きい方と小さい方はつながっているに違いない。最も珍しい渦状星雲である」1861年には「外側の核は渦が左巻きになっているのは事実である」と記している。ウェッブは「ロス卿驚異的な渦状星雲。この光輪すぐれた器機でないと及ばない。この不釣り合いな一対はよいコントラストを示す。大きい方の光輪追跡できる。9.3インチで渦の終わりがわかる。ファインダーでは神秘的な光班」、フラマリオンは「よく目立つ二重星それぞれ中心部がよく輝いて明瞭互い連絡箇所はっきりしている」とした。 子持ち銀河明る銀河双眼鏡でも観測できるためアマチュア天文家にも人気が高い。双方銀河を結ぶ腕は口径10cm程度望遠鏡でも見えるという人もいる。マラスは10cmの望遠鏡主星中心部分に濃淡描き伴星つながった淡い腕を描いているが、単に「写真見過ぎたせいかも」とも記している。渦状構造がどの程度望遠鏡から見えるかと言えばシュトルーヴェ15インチではっきりとし、サゴ13インチ80倍ではっきりするとした。マラスは12.5インチではっきりとみえるとした。条件良ければ口径8cm程度望遠鏡でも腕を見ることができるという人もいる。

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観測史

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HD 221568」の記事における「観測史」の解説

1965年岡山天体物理観測所現国天文台ハワイ観測所岡山分室)の大沢清輝らは、HD 221568が約160日の周期色指数が変光していることを発見した1967年小平桂一岡山天体物理観測所の188cm望遠鏡のクーデ分光器使った観測によりHD 221568化学組成比を詳しく調査し希土類元素太陽比べて著しく大きな組成比を示していることを明らかにした。2002年西村昌能らはすばる望遠鏡の高分散分光器HDS使った観測HD 221568化学組成比をさらに精査し希土類元素ではプラセオジムネオジムジスプロシウムが特に過剰であることや、コバルト過剰星であることを明らかにした。

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観測史

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わし座V605星」の記事における「観測史」の解説

わし座V605星は、1919年新星として最初に記録されたが、後に非常に珍しい変光星であることが判明したピーク時光度は10.4等と測定された。増光以前写真調べた結果1918年12等に明るくなるまでは15等かそれ以下明るさであったその後1年以上11等かそれ以上明るさ保っていたが、次第暗くなっていったその後1921年後半1923年12等まで増光した後、姿を消した増光時のスペクトル型R0水素欠乏炭素星で、一部かんむり座R型変光星 (RCB) に似ていた。 その後18 - 20等級数回検出されたが、これらは星の位置を取り囲む小さな星の節状構造検出されに過ぎない考えられている。ハッブル宇宙望遠鏡撮像では、星自体23等よりも暗く星雲2.5秒ほどの大きさ明るく不規則な形状赤外線天体であった。星はまだ明るいが、濃い星雲大部分隠れているのではないか疑われた。直接検出はできなかったが、散乱光からは[WC4]スペクトル型観測されピーク光度時のスペクトルとは大きく異なっていた。2013年には、中心星が20.2等で検出され4等級の減光推定された。

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M52 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1774年9月7日に、フランス天文学者シャルル・メシエモンテーニュ彗星 (C/1774 P1) を観測中に発見したメシエは「非常に微かな星の集まり星雲状物質交え、普通の色消し望遠鏡見える」と記している。ジョン・ハーシェルは「大きく星数多く丸く集中している。星の等級は9~13等」と記したスミスは「乱雑に星がまかれているが、三角形作る星の頂点に、橙色の星が置かれ羽を伸ばしたのようである。7~8等級の星2個が先行し、他の同じぐらい明るい星が後続する」と記したウェッブは「不規則よくあることだがの星がある」とした。

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観測史

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M29 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1764年7月29日シャルル・メシエにより発見された。メシエは「7~8個の星からできている星団で、3.5フィート望遠鏡では彗星のようにみえる」と記している。

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観測史

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M62 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1771年6月7日シャルル・メシエ発見したが、位置測定1779年6月4日成されたため、カタログにはその日付で記載されている。メシエは「非常にきれいな星雲で、やや彗星に似る。中心部はよく輝く。微かな光の取り囲まれている」と記している。他のメシエ天体球状星団同様にウィリアム・ハーシェルによって初めて星の集まりとして分解して観測された。ハーシェルは「星に分解される。M3のミニチュアだ」と記している。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「大きく綺麗な分解可能な星雲中心部が輝く。微星は中心部急に輝く」とした。1847年にはジョン・ハーシェルによって扁平率が高いことが記録されている。

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観測史

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M72 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1780年8月29日から30日にかけてピエール・メシャンによって発見され同年10月シャルル・メシエ確認の上カタログ記載したメシエは、「メシャンがやぎ座の首の上発見した先立つM71同じくいかすか見える。」とした。1810年ウィリアム・ハーシェル40フィート望遠鏡で「非常に明るい、外形のまるい星団だ。中心から離れて微星がまかれている中心部はひどく密集しているが、よく注意すれば星が見えてくる。視野内の星の光度は多様で、ふつう星団形成する淡い星とは異なっているが、こういった星団このような星があるかもしれない考えられないわけでもない」とした。スミスは「微星が集まる球状星団視野多くの星が見られ星団接して一対重星が続く。南7'にM73がある」とした。

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M11 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1681年ドイツゴットフリート・キルヒによって発見された。キルヒは「不明瞭な光斑」と表現している。1733年頃、ウィリアム・デラムによって初め星団であることが示された。シャルル・メシエは「非常に多くの星が集まっている。良い器械ならこれが見えるが、私の(口径)3フィート望遠鏡では彗星のようで、星団中には微かな光が混じり合っているようである」と記している。

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M79 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1780年10月26日ピエール・メシャンによって発見された。メシエは「星のない星雲うさぎ座の下にある6等星平行する1780年10月26日にメシャンが発見12月17日メシエ見つけた。これはきれいなもので、中心輝き星雲状、ややぼんやりしている」と記したウィリアム・ハーシェルは「20フィート望遠鏡きれいに見える。直径3'。球状星団星数の富む」と記している。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「輝く星状の星雲きれいな対象中心部ほど良く光る」とした。

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M105 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年3月24日ピエール・メシャンによって発見された。M95M96発見の4~5日後、M101よりも3日早く発見されたのにもかかわらずシャルル・メシエ1784年発行した第3版メシエカタログには記載されていなかった。その後ヘレン・ソーヤー・ホッグによってM106M107とともに1947年メシエカタログ加えられた。

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M108 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年2月18日または19日)にピエール・メシャンによって発見された。メシャンはこの二三日前2月16日近隣にあるM97発見している。メシエカタログ載せなかったため世に知られず、1789年4月17日ウィリアム・ハーシェルによって独立発見されている。

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M59 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1779年4月11日に、ヨハン・ゴットフリート・ケーラー(英語版)が彗星観測中にM60とともに発見した。そのわずか4日後にシャルル・メシエM58M60同時に発見している。メシエは「M58先行し、ε星と平行する位置これから決定した双方とも微かである」と記している。1864年ジョン・ハーシェルは、「明るく、かなり大きい。ほとんど広がりがなく、中央急に明るくなっている」と記している。

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M68 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1780年メシエによって発見されたが、いくつかの不審誤り結果ウィリアム・ヘンリー・スミスピエール・メシャン発見記録してしまった。この誤り20世紀になってヘレン・ソーヤー・ホッグによって訂正された。 メシエは「うみへび座の星のない星雲。非常に微か望遠鏡で見るのは大変難しい。近く6等星がある」と記した1786年ウィリアム・ハーシェルは「たくさんの微星に分解され、非常に密集しているので、大多数の星は径3'~4'の間に混じり合っている」とした。ジョン・ハーシェルは「球状星団。不正円形。中央部次第に輝く。はっきり分かれる12等星周辺乱雑ざらざらしている」とした。ウェップは「球状星団。よく分解される12等星そのうち1個は赤い」とした。

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M89 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年3月18日シャルル・メシエによって発見された。メシエはこの夜、球状星団M928つ銀河発見している。 メシエは「星のない星雲極端に微か青色。見るのが困難」と記したジョン・ハーシェルは「かなり明るく大きく円形中央次第明るくなっている」とした。ハインリヒ・ダレストは「非常に美しくまるく直径45"。明るさ10等星にも匹敵する」とした。カミーユ・フラマリオンは「やや星雲状M87ほどおおきくもない。明るさもない。中心部明るい」とした。

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M88 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年3月18日シャルル・メシエによって発見された。メシエはこの夜、球状星団M928つ銀河発見している。 メシエは「小さな2個の星の間にある星雲。この一つ6等星。もっとも暗い星雲M58似ている」と記したスミスは「長く楕円形の星雲青白く北東から南西方向に傾く。視野で星が行列を作る。北の部分は南より明るい。渦状であると推測される」とした。ハインリヒ・ダレストは「すばらし星雲領域」と記している。フェーレンベルクアンドロメダ大星雲ミニチュアであるとした。

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M55 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1752年6月16日ニコラ・ルイ・ド・ラカーユケープタウン発見したラカーユは「大彗星微かなのようだ」と記している。1778年7月24日シャルル・メシエは「白っぽく斑点状星雲で、まるく濃淡がなく星は見えてこない」とした。ジョン・ハーシェルは、「球状星団1113等級の星に分離できる明るく大きく非常に星数が多い。次第に、中心明るくなっている」とした。カミーユ・フラマリオンは「はっきり星が見える。広範囲にわたり不規則にまかれた星の大集塊で、星雲状の物質中にある。直径6'でやや南北伸びている。南天驚嘆すべき目標である。やや青白く見えている」とした。

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M43 (天体)」の記事における「観測史」の解説

フランス科学者ジャン=ジャック・ドルトゥス・ド・メラン(Jean-Jacques d'Ortous de Mairan )が1731年オリオン大星雲接した星雲発見している。ド・メランは「オリオンの輝く部分近くもうひとつの星があり、同じような光につつまれている」と記している。

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M3 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1764年5月3日シャルル・メシエによって発見された。メシエはM3を皮切りに、この1764年終わりまでにM40までをリストアップしている。メシエ口径12cm望遠鏡観察し「星がない星雲中心部がよく輝く。周辺次第薄れ、まるい」と記録している。ウィリアム・ハーシェルは「径5'~6'のきれいな星団」とした。ジョン・ハーシェルは「1112等級の星が直線上に連なり不規則な突起を見る」とした。ウィリアム・ヘンリー・スミスは「よく輝く。1000個を下らぬ星塊。中心部ほどすばらし輝き。星が非常に密集して外にまばらに伸びている東南部除いてあらゆる方向出していて、正しく"くらげ"のようだ」とした。ロス卿は「中心からあらゆる方向突起がでて、中心部には暗い穴が数個ある」とした。

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M82 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1774年ヨハン・ボーデがM81と同時に発見したボーデは「星雲状の光斑で青く楕円」としている。1781年シャルル・メシエは「星のない星雲でM81に先行、M81ほどはっきりしない望遠鏡で同じ視野にみえる。端に微星があり、微か全体がのびている」とした。ジョン・ハーシェルは「非常に大きく明るく、腕が出ている」としている。スミスは「長くて狭く北端明るく、M81より青白い」と記した1871年ロス卿は「ボーデ星雲奇妙に曲がりくねった腕がある」とした。

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M14 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1764年6月1日シャルル・メシエによって発見された。「星のない星雲微か大きくはない」として星団ではなく星雲記している。初め分離したのはウィリアム・ハーシェルで「星に分解300倍で見える。ひどく明るくて、まるい。かなり散開した星々後ろ側にあり、これらの星々星団の上投影されている。M10似ている」としている。

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M18 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1764年フランス天文学者シャルル・メシエがM16とともに発見した。「暗い星からなる星団で、M17の少し下にあり、M16よりも少し見えにくい3.5フィート望遠鏡では星雲見えるが、よい望遠鏡では星だけが見える」と記している。実際には、星雲はなく、スミスはその記載言及し「熱心な観測者使用する望遠鏡が必ずしもその熱意応えてくれないものだ」と記している。ハーシェルは「星が少なく、非常にまばらな星団」と記している。

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さんかく座銀河」の記事における「観測史」の解説

ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナによって1654年以前発見されいたもの考えられている。それとは独立して1764年8月25日シャルル・メシエ発見されメシエカタログ33番に加えられた。メシエは「ほとんど濃淡のない星雲だが、中心部2/3がやや明るい。星は含んでいない」と記している。

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M94 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年3月22日ピエール・メシャンよって発見され2日後シャルル・メシエによって記録された。メシエは「チャールズ心臓コル・カロリの上。星のない星雲で8番星と平行。中心がよく輝いて星雲状のものが少しばかり拡散するうさぎ座M79似ているが、これよりも明るい。」と記したジョン・ハーシェルは「不正円形で輝く。どうにか分解されそう」と記している。スミスは「彗星状の星雲。きれいで青白い。微星が密集したもののよう兆候がある。中央周囲から少しずつ明るくなっている。視野数個の星が見え南側しぶんぎ座にあるものは重星である」としている。1855年ロス卿は「のまわりに暗いリングがある。丸くこの外側明るリング取り囲む破損し不完全である。この目標は多分渦状であろう微かな星雲状のものが沢山外周に見られる」とした。

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M86 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年シャルル・メシエによって発見された。メシエはM84と同じよう外観であるとしている。

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M103 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年にメシャンが発見した。メシャンは「カシオペアの足のδとεの間にある星団」と記している。ジョン・ハーシェルは「明るくかなり大きい」とした。スミスは「均整がとれ重星があり、Struve131は黄と青の一対位置角141°、角距離14.4" (1832年) 。扇形北後続の部分で星がはっきり分岐するきわめて多くの星の流れ見える。四方枝分かれし主な星の光度は7~9等程度明るい8等の赤い星が南に続く」とした。ウェッブは「δのわずか1°北。視野美しくStruve131と赤色星をふくむ」とした。

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M83 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1752年ニコラ・ルイ・ド・ラカーユによってケープタウン発見された。1781年メシエは「ケンタウルスの頭に近い星のない星雲微か光っているが、測微尺の糸をほんの少し照らすだけでも消えてしまい望遠鏡でみるのはむずかしい。最大集光力でみることができようか。6,7等の星と三角形つくっている」とした。ジョン・ハーシェルは「非常におおきくまた明るい。方位角55.1°の方向広がっている。中央急激に明るくなっていて、そこにがある」と記している。ラッセルマルタ島渦状部分の腕を3本見てスケッチ取ったが、写真以前にこの腕を肉眼でみたのはこれが最初であったとされる

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M91 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年3月18日シャルル・メシエによって発見された。メシエはこの夜、球状星団M928つ銀河発見している。メシエは「おとめ座で星のない星雲。M90に先行。これより微か」と記している。

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M106 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年7月ピエール・メシャン発見した。メシャンは「1781年7月私はおおぐま座に近い、りょうけん3番星の1°ばかり南で、もうひとつ星雲発見した…」と記している。当初カタログ収められていなかったためメシャンの発見世に知られず、1788年3月9日ウィリアム・ハーシェルによって独立発見されている。ハーシェルは「かなり大きくは輝く」とした。

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HE 1327-2326」の記事における「観測史」の解説

HE 1327-2326は、ヨーロッパ南天天文台ラ・シヤ天文台設置されている口径1メートルシュミット式望遠鏡用いたクエーサー探索のための掃天観測撮影され明る金属欠乏星1,777個の中から発見された。2003年に、同天文台3.6メートル望遠鏡用いた観測極端に金属量少ないことが明らかとなり、2004年すばる望遠鏡の高分散分光器 (HDS) を用いた分光観測によって詳しい化学組成が明らかとされた。

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M22 (天体)」の記事における「観測史」の解説

エドモンド・ハレーは、1665年8月26日ドイツ天文学者ヨハン・アブラハム・イーレ(英語版)が土星遠日点近くでの動き観測していたときに発見した、としている。ウィリアム・ヘンリー・スミスは、1665年以前ヨハネス・ヘヴェリウスによって発見されていたという説を提示したが、イーレとヘヴェリウス親しく連絡取っており、スミスの説の信憑性は低い。1716年ハレーは「この星団冬至点近く小さくてよく輝く」と記している。ケネス・グリン・ジョーンズは「ゆがんでいる軸は眼視と写真とは異なる」と主張している。

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テンペル・タットル彗星」の記事における「観測史」の解説

テンペル・タットル彗星は、1865年12月19日フランスマルセイユ天文学者エルンスト・テンペル発見し、翌1866年1月6日アメリカハーバード大学天文台ホレース・タットル別に発見した1月11日近日点通過し2月9日まで観測された。しかし、予想されていた1899年1932年回帰観測されず、行方不明になっていた。 いっぽう発見数年後イギリスジョン・ハインドが、868年1366年彗星テンペル・タットル彗星かもしれない示唆していた。1933年日本の神田茂は、詳しい分析おこない868年彗星無関係だが、中国観測され1366年彗星テンペル・タットル彗星だと結論づけた。1965年ドイツJoachim Schubart(ドイツ語版)は、過去500年にわたる軌道計算おこない1366年彗星だけでなく、ドイツゴットフリート・キルヒ観測した1699年彗星テンペル・タットル彗星だと証明した。こうして得られ3回回帰データをもとに再び軌道計算した結果彗星1965年回帰していたはずだと予言された。実際に1965年6月30日南アフリカ確認された。1965年回帰では16程度にまでしか達しなかった。

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ヴィルト第2彗星」の記事における「観測史」の解説

ヴィルト第2彗星1978年1月6日パウル・ヴィルトがスイスベルン大学ツィンマーヴァルト天文台にある口径40cmシュミット式望遠鏡用いて撮影した写真上から発見したその後の観測ヴィルト第2彗星1974年木星0.2 auまで接近していることが明らかになった。この接近木星摂動の影響受けて軌道変わり公転周期は約40年から6年弱へと減少した

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観測史

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フェイ彗星」の記事における「観測史」の解説

フェイ彗星11月23日フェイにより初め観測されたが、悪天候のため確認されたのは25日まで遅れた発見される1ヶ月前に近日点通過していたが、地球接近していたため発見できる程度明るさであった。オットー・フォン・シュトルーベ(英語版)は11月終わりまで肉眼観測できたことを報告したまた、彼によると翌年1月10日までなら3.6インチ反射望遠鏡のような小さ望遠鏡観測することができ、1844年4月10日になると15インチ反射望遠鏡のような大き望遠鏡でも観測できなくなったという。 1843年フリードリヒ・ヴィルヘルム・アルゲランダートーマス・ヘンダーソンそれぞれ独立してフェイ彗星短周期彗星であることを計算し5月にはその周期を7.43年と計算したユルバン・ルヴェリエ1851年出現するフェイ彗星位置計算し4月近日点通過する予測したフェイ彗星1850年11月28日には彼の予測に近い場所にあることがジェームズ・チャリスにより確認された。 フェイ彗星観測適していない状況であった1903年1918年には観測されなかった。2006年には見かけの等級が9に達することがあった。

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観測史

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M101 (天体)」の記事における「観測史」の解説

1781年5月27日ピエール・メシャン発見した同年シャルル・メシエは「星のない星雲で、非常にもうろうとてきれい。径は6'あるいは7'。うしかい左手とおおぐまの尾の中間にある。視野十字線光っているときはむずかしい」と記している。ウィリアム・ハーシェルは「まだらのある星雲状」、ジョン・ハーシェルは「かなり大きく明るい不正円形」、スミス1844年拡散した輝く物質からできている。というよりむしろ巨大な星塊からできた球状星団のひとつ。はかり知れないほどの距離」1855年には「青白い星団で、条件よければ大きくより広がっている。ごく微かだが中心部はよく光っている」とした。ロス卿は「大きく渦状微か数個の腕が出ており、中心部結び目少なくとも径14'」とした。彼のスケッチにははっきりと渦状の腕が描かれている。

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観測史

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パーライン・ムルコス彗星」の記事における「観測史」の解説

パーライン・ムルコス彗星1896年12月9日アメリカ天文学者チャールズ・パーラインカリフォルニア州リック天文台初め発見した1909年回帰のときに観測され以来観測されなかったため消失した考えられていたが、1955年10月19日チェコ天文学者アントニーン・ムルコススカルナテ・プレソ天文台双眼鏡使って再発見し、後にカリフォルニア大学バークレー校のLeland Cunningham英語版)によってパーラインが発見したものと同一のものである確認された。 Friedrich Wilhelm Ristenpart(ドイツ語版)らはパーライン・ムルコス彗星軌道近日点引数除いて消滅した考えられていたビエラ彗星似ていたためその関係性疑った。しかし、木星摂動考慮した上で軌道合致しなかった。 この彗星1968年最後に観測されたが、予測され1975年以降には現れず、現在は消失した考えられているため符号にはPではなくDが付く。

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観測史

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ブルックス第2彗星」の記事における「観測史」の解説

ブルックス第2彗星1889年7月7日ウィリアム・ロバート・ブルックスにより発見された。発見当日動き観測できなかったが、翌朝北へ移動しているのを確かめることができた。1889年8月1日有名な彗星ハンターエドワード・エマーソン・バーナードそれぞれ1分と4.5分離れた位置2つ断片"B"と"C"があることを発見した。また8月2日にはさらに別の4つ5つ発見したが、翌日には見られなくなっていた。8月4日には、"D"及び"E"と名付けられたさらに2つ断片発見された。"E"は翌夜、"D"は翌週にはなくなっていた。8月中旬頃から、"B"は大きく暗くなり、9月初旬消滅した。"C"は1889年11月頃まで見られた。その後1891年1月13日接近が終わるまで、新し彗星核発見されることはなかった。 この核の分裂は、1886年彗星木星ロッシュ限界の内に入りイオ同様の軌道になったときに起こった考えられている。1889年発見以来、この彗星2等級以上暗くなっており、他の破片観測されていない

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観測史

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フィンレー彗星」の記事における「観測史」の解説

フィンレー彗星1886年にはじめて軌道の計算が行われ、1844年フランチェスコ・デ・ヴィコ発見したが、行方不明になった彗星1844 Q1(現在のデヴィコ・スイフト・NEAT彗星英語版))と類似していると考えられた。その後アメリカ天文学者ルイス・ボスデ・ヴィコ彗星フィンレー彗星異なるものである結論付けた1899年回帰しときには観測には不向きであったため観測されなかったが1906年回帰では見かけの等級6にまで達した1910年には木星付近通り過ぎて摂動の影響受けたため、公転周期変化した1919年には軌道予測されていた位置から外れたため天文学者らは発見できていなかったが、「新しい」彗星として1919年10月25日日本の天文学者佐々木哲夫再発見され、フィンレー彗星だと同定された。 フィンレー彗星見かけの等級1926年以降小さくなり、1933年1940年1947年回帰観測されず、1953年になってやっと観測された。 2014年回帰では12月16日アウトバースト起こし見かけの等級11から8.7へと増光した。また、2015年1月15日には二度目アウトバースト起こったフィンレー彗星は、地球との最小交差距離が0.01 auである。2060年10月22日には、地球に0.0345 auまで接近する予測されている。これはハレー彗星837年地球に0.03 auまで接近したときに匹敵する

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観測史

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ハレー彗星」の記事における「観測史」の解説

以下に過去ハレー彗星出現年及びそれが言及されている記録について説明する出現についてはジェット推進研究所JPL)による近日点通過時の年に基づく。

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