軌道の計算
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:08 UTC 版)
ハレー彗星は初めて周期彗星であると認識されるようになった彗星である。ルネサンス以前は彗星についての自然観はアリストテレスにより発展させられ、地球の大気中で起こっていることだと考えられていた。しかし1577年にはティコ・ブラーエによる視差の測定で月よりももっと向こう側にあることが示された。それでも当時の大方の人々は納得することができなかったため、代わりに太陽系内を直線運動していると考えた。 1687年にはアイザック・ニュートンによる著書『自然哲学の数学的諸原理』において重力や運動の法則が明らかにされた。彼は1680年と1681年に現れた大彗星が太陽の通過前か後かの違いで同じ彗星ではないかと考えていたが、うまく彼のモデルに組み込むことができず、ニュートンの説明では彗星についての説明は不完全であった。 そしてついにニュートンの友人であったエドモンド・ハレーは彼の1705年に出版した著書『Synopsis of the Astronomy of Comets』(『彗星天文学概論』)でニュートンが導入した法則を用い、木星・土星の重力の影響を算出した。ハレーは24種の彗星を一覧にまとめ、彼が観測した1682年の彗星(=後のハレー彗星)も含めた軌道要素を計算した。そしてペトルス・アピアヌスが1531年に観測した彗星とヨハネス・ケプラーが1607年に観測した彗星が同じであることに気付いた。ハレーは摂動を大まかに推定し、彗星が木星などの惑星の重力があっても持続できると考え、1758年に再度見えると予言した。彼は近日点に来た1682年から60年後となる1742年、再びこの彗星を見ることなく死去した。 1758年12月25日、ついにハレー彗星が地球に回帰してきたことをドイツの農家でありアマチュア天文家でもあったヨハン・ゲオルク・パリッチュが確認した。近日点に到達したのは1759年3月13日で木星・土星による影響で計618日の遅れが引き起こされた。この遅れは1か月の誤差はあったもののアレクシス・クレロー、ジェローム・ラランド、ニコール=レイヌ・ルポートら3人の数学者により計算された。ハレー彗星の回帰の確認により惑星以外の太陽を公転する天体がはじめて発見されたことになる。また、ニュートン力学が成功を収めた出来事ともなり、その説明力が明らかになった。1759年にはルポートによりハレー彗星と名付けられた。 学者の一部はハレー彗星を周期彗星と認識したのはハレーではなくメソポタミアの天文学者らであるという説も提唱している。その根拠はバビロニア・タルムードのHorayotという本である。この本では「70年に一度現れる船長を惑わす星」について言及している。 1981年には17世紀および18世紀の正確な観測データから数値積分してハレー彗星の過去の軌道を求めようとする試みが行われたが、837年のハレー彗星が地球に接近しすぎていたため837年以前の正確な結果は得られなかった。そのため、古代中国の記録を使う他なかった。
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