江戸時代の刀狩の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 07:43 UTC 版)
後に江戸時代には長州藩など帯刀免許制も崩れた地域もあり、地方により規制に強弱が見られ、江戸幕府が当初には銃刀規制に積極的ではなかった。天草・島原一揆に、危機感を募らせた肥後藩の細川忠利の「全国への武具取り上げ」のたびたびの老中への提言にも動かなかった。逆に、天草一揆後、天草藩へ国替えになった山崎家治は前領主が集めていた一揆方の多くの武器、刀脇差1450本、鉄砲324挺の全てを幕閣の承認を得て、元の村内へ返却している。江戸町民も長刀・長脇差以外の一般の1尺8寸(約54cm)までの脇差の装備は1720年(享保5年)でも布令は無くとも慣習として行われていた。そして1683年までは、旅立ち・火事・葬礼時の町民の帯刀二本差しも許容されていた。しかし、「文治政治」の導入に伴って、17世紀後半に再び帯刀規制に乗り出した。1668年(寛文8年)江戸御用町人以外の日常帯刀を禁止し、後1683年(天和3年)に江戸町民全ての帯刀を禁止して、それは全国的に拡大していき17世紀末には国中に広がった。ただし18世紀でも山城地方など村頭と神主に日常、戦国時代以来の郷侍の家に祭礼時の帯刀を認めた例はある。しかし、百姓に日常帯刀は認めないという秀吉の刀狩りの原則は貫徹していたが、やがて豊かになった百姓により金で帯刀権は買えるようになり帯刀者は増えていき原則は一部崩れていく。だが、二本差し帯刀が身分表象であることは残る。しかし、農村と町民には蓄えられた膨大な武器があった。 徳川綱吉の治世で行われた諸国鉄砲改めでは、村によってかなりのばらつきがあるものの、領内の百姓所持の鉄砲数が武士の鉄砲数をはるかに上回るような藩が多くあった。 ただし内戦状態が解消して安定状態がもたらされた江戸時代には、一揆が起きても鉄砲や弓矢といった飛び道具の持ち出しは19世紀前半の幕末になるまでは自粛されており、統治者と民衆の間で一定の妥協が成立していた。
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