江戸時代の動向
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江戸時代には武川衆の大部分は甲府勤番などの徳川家旗本となった。将軍・徳川綱吉のいわゆる「側用人」として知られる柳沢吉保(1658年 - 1714年)は武川衆である柳沢氏の子孫で、父は徳川綱吉の家臣・柳沢安忠。吉保は安忠正室・青木氏のもとで養育された。吉保は綱吉の家臣となると、宝永元年(1704年)には甲斐国一国を拝領し甲府藩主となる。吉保の正室である曽雌定子(そしさだこ、真光院)は旗本・曽雌盛定の娘で、曽雌家は武川衆の末裔とされる。 ほか、江戸時代の武川衆の子孫では米倉氏が皆川藩や六浦藩の藩主として諸侯に列する。
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江戸時代の動向
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子孫は江戸期の伊勢崎藩に仕え、村役人等を勤めた。 安政2年(1855年)の寄場役人書上帳に村組頭として板垣彦七の名がある。彦七は文化8年(1811年)に名主となり、同年の郷学・正誼堂設立の共同発起人には、後に正誼堂頭取になった源八(分流・板垣重兵衛の孫)の名がある。 彦七の後、文政13年(1830年)に林右衛門(心閑斎信寛)、天保2年(1831年)に宅右衛門、同9年(1838年)に政右衛門と、代々名主として続いた。 幕末には分家筋の板垣直吉が伊勢崎藩士の中にあり、また、文久元年(1861年)の和宮降嫁の際、直系9代・弥助兼信(他藩士2名)が中山道・沓掛宿から坂本宿までの警護として赴いたことが記録されている。
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江戸時代の動向
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延宝7年(1679年)に従三位左近衛中将となり公卿に列した一条兼遐(昭良)の二男・冬基が、同年、冬基の従兄弟にあたる霊元天皇から「醍醐」の家名を下賜され、一条家から分家して創始された。家禄は、312石。通字は特に決まっていないようだが、「冬」「兼」「輝」などが見られ、幕末以降は「忠」で一定しているようである。 昭良は後陽成天皇の第九皇子であり、皇室の血筋を男系で引き継いでいる(系図)。途中、第3代当主の兼潔は、初めはなかなか子に恵まれず、本家の一条家より兼純を養子に迎えていたが、やがて実子の冬香、輝久が誕生。兼純が早世したこともあって、冬香、輝久が当主となった。また、嗣子を亡くしたり、スキャンダルが起きたりなどで、再び当主の座に就く者も見られるが、何とか血脈が絶えることなく、皇室の男系子孫としては現在に至るまで続いている。これは、度々他家からの養子を迎えている本家の一条家とは異なり、途中養子を介していない。 醍醐家が明治維新までに輩出した公卿の数は 8名。うち太政大臣まで昇った者はなく、左大臣まで昇った者1名(2代冬熙)、右大臣まで昇った者1名(3代経胤)、内大臣まで昇った者1名(7・9代輝弘)、大納言まで昇った者3名(初代冬基、6代輝久、10代忠順)、中納言まで昇った者2名(4代兼純、5代冬香)である。
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