江戸時代の労働
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
戦乱が収まる17世紀には生産力も高まり経済が成長する。農民は稲を中心とした食物生産の間に桑、綿、楮、藍、菜種などを生産したが、とりわけ綿と養蚕は女性が担った。多摩郡では真綿永、紬永という税が掛けられていたが、この負担は実質的に女性が担っていた。18世紀末には尾張では綿の産地であったため縞などの特産地となる。生産には農家の女性が従事し、多くは織機を借りて手間請けする「出機(でばた)」と呼ばれる雇用であった。また京の染物でも周辺の百姓に絞り染めを委託していた。 大きな農家では小作人を抱えていた。雇用形態は人身売買は禁止され年季の年数も限られたため、短期の年季奉公から19世紀半ばには日雇いへと変化する。賃金では年季奉公では天保期まで男性の60%から85%であったが、幕末期になると92%程度まで差が縮まる。 都市部においては手工業を担った。18世紀半ばの『百人女郎品定』には糸繰り、機織り、染物などのほか扇折、そうめん粉引きなどに従事する女性職人が描かれている。女髪結いが流行りだすのも18世紀末ごろと言われる。遊女まがいの髪型は「風紀を乱す」として規制の対象となることもあったが、女性の職業として定着していった。
※この「江戸時代の労働」の解説は、「日本の女性史」の解説の一部です。
「江戸時代の労働」を含む「日本の女性史」の記事については、「日本の女性史」の概要を参照ください。
- 江戸時代の労働のページへのリンク