江戸時代の公娼制・遊郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 14:03 UTC 版)
江戸時代に入ると、麹町道三町、麹町八丁目、神田鎌倉海岸、京橋柳橋に遊女屋がいとなまれた[要出典]。 徳川家康は『吾妻鏡』に関心を示し、秀吉の遊郭政策に見習い、徳川安泰を謀り、柳町遊女屋庄司甚右衛門に吉原遊郭設置許可を与えた。庄司甚右衛門は「(大遊郭をつくって)お大阪残党の吟味と逮捕」を具申したのである。甚右衛門はこう述べた。1、大阪残党の詮議と発見には京の島原のような規模が適切である。2、江戸に集まる人々の性犯罪の防止のため3、参勤交代の武家の性処理4、江戸の繁栄に役立つ。幕府は三都の遊郭(吉原、京の島原、大阪新地)を庇護して税金を免除し、広大な廊内に自治権を与え、業者を身内扱いしたのであった[要出典]。将軍代替わりの祝儀、料理人の派遣、摘発した私娼の引渡しがなされ、江戸では1666年に私娼大検挙がなされ、湯女512人が吉原に引き渡され吉原の繁栄をもたらした。明治以降の日本の「公娼制度」にも政府と遊郭との結びつきが見られるのは、江戸時代に幕府と遊郭業者が結びついたこの伝統下にあると言える[要出典]。江戸幕府は、散在する遊女屋を特定地域に集合させるために、1617年(元和3年)、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、ここを「吉原」と命名した。1657年(明暦3年)に、浅草日本堤下に移転(新吉原)を命じた。この時、5箇条の掟書を出して、その取締規則によって営業させた。すなわち、 一、傾城町の外傾城屋商売致すべからず、竝に傾城囲の外何方より雇ひ来候とも先口へ遣はし候事向後一切停止さるべく候。 二、傾城買ひ遊候者は一日一夜の外長留り致間敷候事。 三、傾城の衣裳総縫金銀の摺箔等一切著させ申間敷候何地にても紺屋染を用ひ申すべく候事。 四、傾城屋家作普請美風に致すべからず、町役等は町々の格式通り屹度相勤め申すべき事。 五、武士町人体の者に限らず出所吟味致し不審に相見え候者は奉行所へ訴出づべき事。 こうして江戸に遊郭が設置され、ついで京都、伏見、兵庫、大津などにも公認の遊郭が設置された。その一方で、市中にひそむ私娼を取締まり、これを禁じた。このため、城下町や駅路でいとなまれる遊女屋は、「はたごや」という名目をとり、そこの遊女を「こども」、「めしもりおんな」などといった。 こうして二百数十年間に渡って日本各地に遊郭が栄え、江戸文化の一つとなったが、やがて、性病が蔓延し、幕末には約三割が梅毒感染者であったとも言う。家康自身が70を過ぎて淋病にかかり、他におおくの感染者がいた。
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