江戸時代の一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 03:08 UTC 版)
1637年(寛永14年)の島原の乱以降、江戸幕府は百姓が徒党を組むことを禁じ、一揆は禁じられた。農民たちは自分たちの行為を「一揆」とは決して呼ばなかったが、農民たちが要求を通すために徒党を組む「百姓一揆」は継続して行われた。 江戸時代前期には、直訴や逃散など武力を用いない一揆が主に行われた。中期には全藩一揆や惣百姓一揆、強訴などと呼ばれる大規模な蜂起が主流となる。何万人といった百姓が集結する大規模なものであるが、家屋を少し傷つけたりする程度で、放火や略奪・殺傷などは厳しく統制されていた。また、刀狩以降も大量の武器を保有していたのにもかかわらず、農民が武装することはなく、鎌や鍬などの農具を持ち、鉄砲や竹槍を攻撃のために使用することはほとんどなかった。このため対応する武士側も原則的に強硬な対応は取れず、鉄砲を用いるのには幕府の許可が必要とされた。一揆の発生は幕府から統治の失敗と見られることもあり、最悪の場合は領主の処罰や改易の恐れもあった。このため領主側も対応には穏便な対応を取らざるを得なかった。百姓一揆の闘争形態の分類として、代表越訴、惣百姓一揆、村方騒動、国訴などが挙げられる。 江戸時代後期の天明・天保年間には再び広域の一揆が多発した。武州騒動では無宿など「悪党」と呼ばれる集団に主導され、武器を携行し打ち壊しのみならず、強盗や放火など、百姓一揆の作法から逸脱した行為を行う形態の一揆も見られたとされる。ただし、武器を使用したという記録は幕府側にしか無く、保坂智は幕府が銃撃して鎮圧したことを正当化するためのものではないかと指摘している。幕末には世直し一揆が各地で発生している。 呉座勇一は当時一般の百姓が「武士は百姓の生活がきちんと成り立つように良い政治を行う義務がある」と考えており、政治参加や体制変革の意識自体がなかったため、百姓一揆は反体制運動ではないことを指摘している。與那覇潤は「政治は全てお上におまかせ、ただし増税だけは一切拒否」と表現している。
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