江戸時代から戦前期まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 05:16 UTC 版)
「旭 (広島市)」の記事における「江戸時代から戦前期まで」の解説
江戸初期、広島湾頭の遠浅の干潟に過ぎなかったこの地区は、1662年(寛文2年)から翌1663年にかけて行われた仁保島西新開の造成により、近隣の皆実町・出汐・翠などとともに新たな埋め立て地となった。仁保島西新開はのち「皆実新開」と改称され、明治維新後には皆実村、1889年(明治22年)の広島市制施行後は同市の(大字)皆実に属することとなった。日清戦争開戦とともに軍港である宇品港への軍事輸送のためにこの地区を縦断して国鉄宇品線が敷設された。昭和期に入って1932年、地区内(現・西旭町「ポッポ広場」)に宇品線唯一の行き違い駅として下大河駅が開業した。そして、それまで皆実町(1916年に改称)の東半部(当時は「東下組」)であったこの地区は、1933年になって初めて「旭町」として分立した。1945年8月6日の原爆投下に際して、爆心地から3km前後の位置にあったこの地域は、半壊地域とされているものの被害は比較的小さかった。
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