江戸時代から団十郎が栽培されてきたという通説について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:15 UTC 版)
「団十郎朝顔」の記事における「江戸時代から団十郎が栽培されてきたという通説について」の解説
「江戸時代から団十郎が栽培されてきた」とする通説は、前項で述べた色名としての「団十郎茶」の流行を「団十郎朝顔」の流行と混同したこと、また芦澤による「江戸時代から茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名した事もあったらしい」という記述が元である。芦澤の記述も先行する渡辺の「花色は、茶・焦茶・柿茶・栗皮茶など茶系統なら、青葉でも黄葉でもよく、無地でも覆輪でも『団十郎』と呼んでいた。」という記述が元になっている。これが米田により引用され、「朝顔でも古くから茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名してきたらしい。」という記述になり、「江戸時代から茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名した事もあったらしい」となっていった。芦澤が「古くから」という記述を「江戸時代から」にした理由は不明であり、また「らしい」というあいまいな記述になっており根拠に乏しい。江戸時代の図譜には「団十郎」と名付けられた朝顔は確認できない。団十郎茶の流行した弘化から嘉永にかけては第二次朝顔ブームと重なるが、この時代は変化朝顔が主流であり、その特徴を表現する為に葉や花の特徴を並べて記述する(例えば黄蝉葉の「団十郎」ならば「黄蝉葉栗皮茶丸咲大輪」と表現する)命名法が確立し利用されていて、特定品種に「団十郎」のような命名をする事がほとんど無い。また、黄蝉葉「団十郎」の起源はどんなに古くとも大正以前には遡れない。黄蝉葉「団十郎」の親品種である「花王」が広まるのは大正以降であるからである。黄蝉葉種は名古屋で生まれ、京都に流出し全国に広まった。黄蝉葉「団十郎」は京都で戦時中保存維持されてきた。黄蝉葉「団十郎」は明治時代の入谷の団十郎朝顔とは無関係である。
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