江戸時代〜昭和(戦前・戦中)時代
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「取組」の記事における「江戸時代〜昭和(戦前・戦中)時代」の解説
1778年(安永7年)3月場所より、それまでの8日間興行から10日間興行に延長されたが、千秋楽には幕内力士の取組は少なかった。1826年(文政9年)1月場所から千秋楽は原則的に幕下以下力士のみの取組となり1856年(安政3年)1月場所の白真弓を最後に幕内力士の取組はなくなった。これは1909年(明治42年)1月場所まで続いた。 本場所が番付下位の力士の取組から進行する原則は、江戸時代から現在まで変わっていない。しかし、現在と違って屋外での興業だった時代、天候が打ち出しまでもつか不安があるような場合、役力士の取組を前倒しで行ったり、最初から前半戦と後半戦それぞれの最後に役力士が登場するような割が組まれることもあった。 1909年6月場所、両国に常設館(旧両国国技館)が開館され、江戸時代より続いた晴天10日間興行が晴雨に関わらず10日間興行と改められ、それまで幕内力士は千秋楽を休場していたものが10日間皆勤出場となり、千秋楽にも幕内力士の取組が行われるようになった。 1928年1月場所、西前頭13枚目で10戦全勝と優勝争いの先頭に立っていた三杦磯善七の千秋楽(11日制)の相手は東張出小結の玉錦三右エ門。幕尻近くの力士が三役力士と当てられることは当時考えられないことで、世間はベテラン三杦磯の優勝を応援したため騒動になった。結果、三杦磯は玉錦に破れ、同じ10勝1敗の東大関常陸岩英太郎が番付上位のため優勝。場所後、相撲協会は幕内下位力士であっても成績次第で上位と対戦させる方針を公式に表明した。 1943年(昭和18年)5月場所(開催は4月)10日目、前頭17枚目龍王山-同10枚目青葉山戦は、再三の取り直しに勝負がつかず引き分け協会預りとなった。翌11日目の朝協会は「敢闘精神の欠如」として2人に無期限出場停止とする前代未聞の裁定を下す。連合艦隊司令長官山本五十六元帥戦死の報が伝えられ、国技館でも取組を中断して黙祷などが行われた直後の取組だったこともあり、戦局の激化が角界にも影響を及ぼした形だった。その後力士会(会長双葉山)の抗議によって両力士の出場停止は2日間で解かれ、13日目今度こそ決着まで敢闘を尽くすよう勧告の上で両者の再戦が組まれ、青葉山が速攻で勝利した。
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