江戸時代から戦前まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 14:36 UTC 版)
「田町 (八王子市)」の記事における「江戸時代から戦前まで」の解説
江戸時代の八王子宿には横山宿・八日市宿・八幡宿・八木宿など15の宿場が配されていた。この旅籠に飯盛女(飯盛女郎)を置くことが許されたのは1718年(享保3年)、横山宿・八日市宿の12軒のみであったが、下女・下働き等の名目で同様の営業を行っていたものも数多くあったと言われている。宝暦年間にはその数は30軒近くあったと見られている。『三多摩風土史』によれば、「宿駅には『足洗い』、『めしもり』、『やまだし』などのごとき旅情を慰めるたぐい多く八王子青楼の前身をなす」と書かれている。この「八王子青楼」は、後に現在の田町に作られた八王子遊郭を指している。 1893年 (明治26年)8月に遊廓「新万楼」から出火し、八王子町の八日町・本町の702戸を焼く大火が発生の後甲州街道沿いの横山町等に散在していた飯盛旅籠(1872年(明治5年)の娼妓解放令以降は「貸座敷」)を元横山町妙薬寺裏の田地に移したのが八王子遊郭の始まりである。この八王子遊郭は1897年(明治27年)に当局に指定された。八王子遊郭は東側に大門を備え、堀に見立てた小さな側溝を巡らせてあった。この八王子遊郭の土地は元横山町の内で「田町」・「浦田」・「新地」等と通称されていたが、1912年(大正元年)に正式な新町名となった。1917年(大正6年)には八王子市の市制施行のため、八王子市の町名となった。この当時のは大門の外に10軒の宅地が並んでいたほかは大門と周囲に巡らせた側溝内側の八王子遊郭と、側溝の外側の若干の田地で構成されていた。八王子遊郭は大門から入った中央に3か所の井戸を交えた桜と柳の並木を備えた大路の両側に妓楼が並んでおり、大門から入って左側手前から大黒楼・道米楼・但州楼・角勢楼・大桝楼・武蔵楼・尾張楼・栄太楼・大川楼・亀万楼・紅葉楼(手前から1-11番地)が並び、右側手前から但清楼・楓楼・福万楼・桝万楼・弥生楼・藤本楼・大万楼・今万楼・大和楼(奥から12-21番地)が並んでいた。大和楼の裏には性病検査のための病院(32番地。警視庁管轄の八王子病院。現存しない)が置かれていた。田町には衛生設備が備えられていたため梅毒等の性病で入院する患者は田町の娼妓より中町の芸者の方が多かったといわれている。妓楼はこの他に西玉楼、宏陽楼、三崎楼、吉濱楼、いろは楼、徳万楼の名が確認されている。
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