民政党解党と敗戦とは? わかりやすく解説

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民政党解党と敗戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:11 UTC 版)

町田忠治」の記事における「民政党解党と敗戦」の解説

五・一五事件以降憲政の常道崩れ軍国主義軍閥政治広がり始め町田首相への道はついに開かれることはなかった。近衛新体制運動の展開に伴い民政党最後まで解党抵抗したものの、1940年昭和15年8月15日解党余儀なくされた。近衛側近風見章原田熊雄対し、 「町田氏任務民政党解消セシムルダケガ役割ニシテ ソレ以上ノ役割ヲ買ハントスルガゴトキハ 身ノ程ヲ知ラズト云ハザルヲ得ズ。民政党解党同時民政党今日マデノダラシ無カリシ党情ノ責任一身背負隠退シテコソ 公人責任ヲ果タスモノト云フベシ。コノ間違アルベカラズ」 —風見章,「風見章日記1940年5月29日付 と述べて、党崩壊阻止しようとする町田奔走ぶりを嘲笑した翌年翼賛議員同盟顧問1942年昭和17年翼賛政治会顧問1944年昭和19年大日本政治会顧問就任した町田男爵叙任枢密院副議長任命阿部内閣および米内内閣入閣それぞれ奨められたが、一代議士として国家のために働く信念押し通した太平洋戦争中には度々議会壇上から国民気力激励与え奮起促した敗戦後1945年昭和20年9月5日、第88臨時議会提出された「承詔必謹決議案」の趣旨説明登壇し、「明治以来偉業むなしき嘆き日本再建文化の発展にあることを明らかにし、国民一致国体維持し前途微光望んで新生日本建設全智全能発揮するであろう」と言々血を吐き声涙倶に下る歴史的演説をなして国民粛然たらしめたという。

※この「民政党解党と敗戦」の解説は、「町田忠治」の解説の一部です。
「民政党解党と敗戦」を含む「町田忠治」の記事については、「町田忠治」の概要を参照ください。

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