民政制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:08 UTC 版)
民間の掌握にあたっても、元では、個々の民と皇帝との個人的主従関係が重視された。元は戸籍を作成するにあたり、各戸を「軍戸」「站戸」「匠戸」「儒戸」「民戸」などの数十種ある職業別の戸籍に分け、職業戸は戸ごとに世襲させた。儒戸は上ですでに触れたが、軍戸や站戸は、軍役や駅站に対する責任を負う代わりに免税などの特権を享受し、一般の民戸に比べると広大な土地を領有する特権階級となった。軍戸や站戸はかつての漢人世侯の配下の兵士たちが軍閥解体後に編成されたものが主で、モンゴルに対する旧功により特権を与えられたのだと理解される。地域的にも、モンゴルに帰順したのが早い華北に偏っていたといわれている。 こうした政治制度がとられた結果、モンゴルは必然として、モンゴルに帰順した順序によって、支配下の民族の扱いに厳格な格差が存在した。これが有名な、モンゴル人・色目人・漢人・南家の四等身分制度である。四等身分制度が実施されたため、漢人南家の高級官吏は万人無二と称される様に非常な小数に抑えられていた。但しこの身分制度で支配の頂点に立っていたモンゴル人でも没落して奴隷になる者もいた。クビライも皇帝即位以前からウイグル人・契丹人・漢人・女真人などからなる多種族混成のブレイン・実務集団を抱えている。元王朝では財務に優れた色目人(ムスリム)たちには財政部門を、文化・宗教関係部門にはチベット人やインド、ネパール、カシミール地方の出身者を、そして科学・学術・情報・技術分野にはあらゆる地域出身の人々が登用され、各人の特性や能力に応じた職務を分担した。そして元末にはキプチャク親衛軍やアスト親衛軍のように元々モンゴルではない出自の者がモンゴル貴族なみに政権を左右し、漢民族出身者でも元王朝に忠誠を誓うものが現れた。台北市の国立故宮博物院に収められているクビライの狩猟の様子を描いた「世祖出猟図」では黒人と思われる黒い肌をした馬に乗った人物がクビライの近くに描かれており、このことから黒人ですらこの様な扱いを受けているのに、南家や漢人が差別されたのは考えにくいことである このようにモンゴルの慣習に固執し、科挙によらず縁故主義(科挙は実力に基づく)により人材を登用し、特にモンゴル人の中国への同化を嫌った元の政治制度はきわめて特異であり、その分権的で中世的な支配は、唐代以来貴族階層及び農奴制の解体と皇帝独裁へと進んできた中国の歴史の大まかな流れからみれば大いに時代逆行的であった。また、流通や貿易の振興を図り、紙幣を流通させるなど経済・商業政策は南宋の施行を引き継いだものの、奴隷制へ逆行した弊害は大きく広範な産業(特に農業全般、漁業、鉱業全般)において停滞期に入り、宋代の水準へ回復するのは明代中期まで待つ事となる。
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