民政復帰とユーロコミュニズム
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「サンティアゴ・カリーリョ」の記事における「民政復帰とユーロコミュニズム」の解説
フランコが1975年11月20日に死去すると、1976年に極秘裏にスペインへ帰国。1977年3月2日にマドリードで開催された会談にて、フランスのジョルジュ・マルシェやイタリアのエンリコ・ベルリンゲルと共に、ユーロコミュニズム運動の先陣を切った。4月開催の党大会でも、レーニン主義の放棄の他、複数政党制並びに王政の承認を決定。 同年スペイン国会の下院に当たるスペイン下院選挙で、マドリード選挙区から出馬し初当選。なお、この選挙はスアレス政権によりスペイン共産党が合法化(1977年4月9日)された直後で、民政復帰後初であった。 移行期間中におけるカリーリョの権威や指導力は、民主制度への平和的な進化や反対勢力との対話に基づく建設的な手法、内戦からの復興を進める上で、決定的な役割を果たした。一連の取り組みは「[政策」とも称されるが、平和的な民政復帰を可能にする事となる。 1979年には再選を果たすものの、内戦やその後の弾圧並びに独裁からの回復途上にあった1981年2月23日、クーデター未遂事件(23-F)に遭遇。これを機に共産党への支持が一旦は後退する一方、23-Fにおける蛮勇は注目に値する。当時引退間際であったスアレス首相やマヌエル・グティエレス・メラド防衛相と共に、反乱軍の命令に背いたばかりか、席に居座りタバコを吹かす模様が、テレビを通して生中継されたのである。2月27日マドリードの街頭にて、民主主義と護憲を訴える大規模なデモンストレーションに参加。 1982年の選挙でも議席を死守。しかしこの選挙で共産党は、主流派であるユーロコミュニズム派と親ソ派との対立などが相俟って、前回選挙より19議席減の4議席と惨敗を喫する。同年11月6日、党勢が奮わなかった責任を取り、書記長を退任する。後任はヘラルド・イグレシアス。
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