民政復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 04:07 UTC 版)
「ムハンマド・ジア=ウル=ハク」の記事における「民政復活」の解説
1985年には政党によらない選挙を実施した。対立政党のほとんどは選挙のボイコットを決めたが、当選者の多くが実際は何らかの政党に属す結果となった。彼はその中から、当時はハクの言いなりになる人物といわれたムハンマド・ハーン・ジュネージョー(英語版)を首相に指名した。さらに戒厳令は解除され、形式的には民政が復活したが、まだ軍人主導の政治体制であった。 自由化を主張する声は次第に高まり、1988年になるとハク大統領と批判的になったジュネージョー首相の関係も険悪になった。5月29日、国会は解散され、11年ぶりの普通選挙が約束された。ジュネージョー首相は解任されたが、表向きの理由はジュネージョー内閣がイスラム化を渋ったためとされる。6月18日ハクはイスラム法の完全導入を宣言した。 ブットーの娘ベーナズィール・ブットーはすでに1986年帰国していたが、急激に人気を集め、またソ連の撤退により援助も減ったことから、ハクの政治的立場は苦しくなった。 このような状況の中、ハクは1988年8月17日、飛行機墜落事故で急死した。パンジャーブ州バハーワルプルで軍のパレードに参加した後、アメリカ合衆国大使らとともに空軍のC-130ハーキュリーズ(シリアルナンバー23494、1962年製造)に搭乗し離陸した直後墜落し、全員が死亡したものである。当時は暗殺説もささやかれたが、飛行機の故障によるとされる。(en:Death and state funeral of Muhammad Zia-ul-Haqを参照。) 次の大統領となったグラーム・イスハーク・ハーン(英語版)が死去を公式発表し、8月19日イスラマバードで葬儀が行われ、ファイサル・モスクに埋葬された。 ハクの2人の息子は政界に入り、その一人ムハンマド・イージャーズ=ウル=ハクはナワーズ・シャリーフ政権の閣僚となっている。
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