民政移管以降とは? わかりやすく解説

民政移管以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 16:57 UTC 版)

チリの歴史」の記事における「民政移管以降」の解説

民政移管後、新政権は、ピノチェト将軍軍政期人権侵害携わった軍人処遇などの複雑な問題抱えながらスタートしピノチェト陸軍最高司令官として留任することになった1990年就任したエイルウィンの政策は、基本的に軍政期からの新自由主義継承するものであったが、市場原理主義修正図り軍政期拡大した所得格差貧困問題解決への取り組み進んだ1994年には、コンセルタシオン・デモクラシア構成するキリスト教民主党から、エドゥアルド・フレイ・ルイスタグレ大統領就任したen)。このフレイ時代1998年2月に、ピノチェト陸軍総司令官退役したが、ピノチェトには終身上院議員議席確保された。しかし、同年10月イギリス滞在していたピノチェトは、軍政期に在チリスペイン人へ人権侵害行ったことを理由としたスペイン要請により逮捕され外交問題となった2000年には、コンセルタシオン・デモクラシア構成するチリ社会党から、リカルド・ラゴス大統領就任しチリ社会党からの大統領は、アジェンデ以来のこと)、チリ経済成長進んだ1990年から2000年までのGDP成長率平均約6.6%であり、軍政期1973年から1990年)の平均の3.70%を上回った2006年には、コンセルタシオン・デモクラシア構成するチリ社会党から、同国初の女性大統領ミシェル・バチェレ就任したバチェレ政権は、貧困対策成果上げ中南米諸国の中では高い経済成長維持したこのようにチリでは、民政移管後にキリスト教民主党社会党など4党を中核とするコンセルタシオン・デモクラシア4期連続20年わたって政権担ってきた。国民コンセルタシオン・デモクラシア期待した最大要因は、軍政傷痕克服することであった歴代コンセルタシオン・デモクラシア政権は、新自由主義歪み修正する試みに挑戦してきた。またバチェレ政権は、非民主的な選挙制度教育制度改革非正規雇用削減貧困層向けの社会政策にも挑戦してきた。しかし、国会で与野党勢力拮抗していることもあって、抜本的な改革には至らなかった。一方貧困層支援強化したことに対す中産階級層から不満や批判が出るようになったこうした中、2009年12月13日大統領選挙実施された。1位は右派野党連合チリのための同盟セバスティアン・ピニェーラ上院議員得票率44%、2位与党連合コンセルタシオン・デモクラシアエドゥアルド・フレイ得票率29.6%、3位与党離脱した無所属エンリケス候補得票率20.1%、4位は共産党などで結成した左翼連合アラテ候補得票率6.2%であり、過半数得票得た者がいなかったため、1位と2位との決選投票2010年1月17日行われた。この結果チリのための同盟セバスティアン・ピニェラが51.6%を獲得し初当選した。与党連合コンセルタシオン・デモクラシアエドゥアルド・フレイ大統領は48.4%であったピノチェト軍事独裁政権以来ピノチェト流れを組む右派政治家大統領になるのは初めてのことである。実業家出身のビニェラは、経済成長目的民間部門活用をより重視する企業寄り市場寄り政策をとった。ただし、彼は軍政敷いたピノチェト信任を問う国民投票では、退陣運動参加した経験持ち主でもあり、コンセルタシオン・デモクラシア進めた政策全面否定はしておらず、貧困層向けの社会計画継続公約するなど、それまで中道左派政権担ってきた国民本位政策実施しようとした。 2013年12月15日大統領選挙では、コンセルタシオン・デモクラシアから改まった新多数派構成するチリ社会党の前大統領ミシェル・バチェレ氏が勝利し2014年より第二次バチェレ政権誕生した2018年には2017年11月27日選挙勝利した右派セバスティアン・ピニェーラ4年ぶりに大統領返り咲いた第二次ピニェーラ政権ではより右傾化色を強めたことで、国民反発招き2019年にはピノチェト軍事独裁政権以来最大となる大規模な反政府デモ起きている。 2021年5月15-16日、軍政時代から続く憲法代わる新憲法案を起草する制憲議会選挙が行われた。また、同年大統領選挙では左派ガブリエル・ボリッチ当選した

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民政移管以降(1985年-)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/04 16:41 UTC 版)

ウルグアイの歴史」の記事における「民政移管以降(1985年-)」の解説

1984年行われた選挙ではコロラド党勝利し、翌1985年コロラド党フリオ・マリア・サンギネッティ大統領就任し民政移管完了した民政移管後は他国同様に軍事政権下人権侵害に関わった軍人や、テロ活動行ったトゥパマロス組織員の恩赦大きな問題となったが、1988年恩赦国民投票承認された。 1990年にはブランコ党からルイス・アルベルト・ラカージェ(スペイン語版)が大統領就任した。ラカージェ政権では1990年代ラテンアメリカ猛威奮っていた新自由主義国民投票否決された。また、域内経済統合進み1991年3月26日アルゼンチンブラジルパラグアイと共にアスンシオン条約英語版)を締結しメルコスール設立宣言された。1995年メルコスール正式に発足するモンテビデオ事務局置かれた。 1995年にはコロラド党から第二次サンギネッティ政権成立したコロラド2000年の大統領選挙でもホルヘ・バッジェのもと政権維持したが、2001年アルゼンチン金融危機の影響受けて経済大打撃受けた2005年大統領選挙では拡大戦線からタバレ・バスケス勝利し建国以来続いたコロラド党ブランコ党二大政党制終止符打った

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民政移管以降(1989年-)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 22:43 UTC 版)

パラグアイの歴史」の記事における「民政移管以降(1989年-)」の解説

クーデター後ロドリゲス将軍1989年5月1日行われた大統領選挙勝利し民主主義への移行目指し1992年新憲法公布した1993年5月大統領選挙ではコロラド党のフアン・カルロス・ワスモシ(スペイン語版)が当選した。ワスモシは陸軍総司令官のリノ・オビエド(スペイン語版)によるクーデター未遂事件直面したため、オビエド投獄されたが、1998年コロラド党からラウル・クバス(スペイン語版)が大統領就任する恩赦釈放された。1999年3月に反オビエド派のルイス・アルガーニャ(スペイン語版副大統領何者かに暗殺されると、クバス引責辞任し、上院議長のルイス・アンヘル・ゴンサーレス(スペイン語版)が大統領就任した2003年大統領選挙ではコロラド党ニカノル・ドゥアルテ勝利し大統領就任した2008年大統領選挙では中道左派野党連合変革のための愛国同盟英語版)のフェルナンド・ルーゴ神父勝利し1947年パラグアイ内戦から61年続いたコロラド党政権終焉した。

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民政移管以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:45 UTC 版)

エクアドルの歴史」の記事における「民政移管以降」の解説

1979年には新憲法下初の選挙により、キリスト教民主主義人民結集党のハイメ・ロルドス・アギレーラが大統領就任した。ロルドスは民主主義社会正義訴えニカラグアでの内戦際しアナスタシオ・ソモサ・デバイレ独裁政権断交してサンディニスタ民族解放戦線支持した。しかし1981年 5月24日にロルドスは飛行機事故急死し、オスバルド・ウルタード副大統領大統領昇格した1982年までウルタード政権慢性の政情不安に加えてハイパーインフレ財政赤字国内産業競争力低下などの経済恐慌直面し緊縮政策を採ることとなった1984年にはキリスト教社会党からレオン・フェブレス・コルデーロが大統領就任した。この政権親米路線をとったが、1987年大地震発生石油パイプライン破壊されるなど激甚被害を受け、対外債務利子支払い停止緊急措置発動した。 1988年民主左翼党から就任したロドリゴ・ボルハ大統領は、財政赤字削減インフレ抑制尽力する国民不満によって退陣した。1991年埋蔵石油をめぐりペルー国境紛争がおきていたが、この年両国非武装地域設置合意した1992年には共和連合党からシスト・ドゥラン・バジェンが大統領就任した保守派ドゥラン政権新自由主義政策進め石油輸出国機構からも脱退した。さらにドゥラン政権1995年ペルーアルベルト・フヒモリ政権と再びアマゾン領有主張地域巡って衝突したが、このセネパ紛争敗北した1996年にエクアドル・ロルドス党からレバノン系のアブダラ・ブカラムが大統領就任した。ブカラムは当初ポプリスモ公約掲げて就任したが、就任後一転して直ち新自由主義政策を採った。奇行腐敗政治がなされ、民衆蜂起国会罷免や軍の運動により、ブカラムは1997年2月失脚しパナマ亡命した1998年人民民主党から就任したレバノン系のハミル・マワ大統領は、同年10月26日結ばれたブラジリア議定書によりアマゾン地域放棄正式に認め国民もこの措置受け入れた以降ペルーとの友好関係不本意ながら再開することになった。しかし、ハイパーインフレ年々悪化し続け2000年には25,000スクレが1米ドル値するほどエクアドル通貨価値低下していた。2000年1月9日マワ大統領進行中経済恐慌を防ぐためにエクアドルの公式の通貨として米ドル採用する意志発表した2000年9月10日エクアドル通貨米ドルを正式採用しそれまで流通していたスクレ使用されなくなった。しかし、民衆の不満は募り救国評議会蜂起によりマワ失脚すると、アルバロ・ノボアが暫定大統領就任した2003年に軍と先住民組織支持により、ルシオ・グティエレスが大統領就任するが、情勢安定経済不況続き2004年12月特別国会最高裁判事大部分更迭した。しかし、この措置対す批判高まり全国規模デモ展開され2005年4月に、国会グティエレス大統領罷免した。同月副大統領アルフレド・パラシオ大統領へ就任した2006年11月26日にアルバロ・ノボアとラファエル・コレア大統領選挙出馬しコレア1979年以来の最高有効票獲得して大統領就任したコレアベネズエラウゴ・チャベス政権や、ボリビアエボ・モラレス政権などの反米左派政権との関係を深め親米右派掲げコロンビアアルバロ・ウリベ政権対す干渉的な政策を採っている。

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