民政移管以降
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民政移管後、新政権は、ピノチェト将軍ら軍政期に人権侵害に携わった軍人の処遇などの複雑な問題を抱えながらスタートし、ピノチェトは陸軍最高司令官として留任することになった。 1990年に就任したエイルウィンの政策は、基本的には軍政期からの新自由主義を継承するものであったが、市場原理主義の修正を図り、軍政期に拡大した所得格差や貧困問題解決への取り組みも進んだ。 1994年には、コンセルタシオン・デモクラシアを構成するキリスト教民主党から、エドゥアルド・フレイ・ルイスタグレが大統領に就任した(en)。このフレイ時代の1998年2月に、ピノチェト陸軍総司令官が退役したが、ピノチェトには終身上院議員の議席が確保された。しかし、同年10月、イギリスに滞在していたピノチェトは、軍政期に在チリスペイン人へ人権侵害を行ったことを理由としたスペインの要請により逮捕され、外交問題となった。 2000年には、コンセルタシオン・デモクラシアを構成するチリ社会党から、リカルド・ラゴスが大統領に就任し(チリ社会党からの大統領は、アジェンデ以来のこと)、チリ経済の成長が進んだ。1990年から2000年までのGDP成長率は平均約6.6%であり、軍政期(1973年から1990年)の平均の3.70%を上回った。 2006年には、コンセルタシオン・デモクラシアを構成するチリ社会党から、同国初の女性大統領、ミシェル・バチェレが就任した。バチェレ政権は、貧困対策で成果を上げ、中南米諸国の中では高い経済成長を維持した。 このようにチリでは、民政移管後にキリスト教民主党、社会党など4党を中核とするコンセルタシオン・デモクラシアが4期連続・20年にわたって政権を担ってきた。国民がコンセルタシオン・デモクラシアに期待した最大の要因は、軍政の傷痕を克服することであった。歴代のコンセルタシオン・デモクラシアの政権は、新自由主義の歪みを修正する試みに挑戦してきた。またバチェレ政権は、非民主的な選挙制度や教育制度の改革、非正規雇用の削減、貧困層向けの社会政策にも挑戦してきた。しかし、国会での与野党の勢力が拮抗していることもあって、抜本的な改革には至らなかった。一方、貧困層支援を強化したことに対する中産階級層から不満や批判が出るようになった。 こうした中、2009年12月13日、大統領選挙が実施された。1位は右派野党連合チリのための同盟のセバスティアン・ピニェーラ元上院議員で得票率44%、2位は与党連合コンセルタシオン・デモクラシアのエドゥアルド・フレイで得票率29.6%、3位は与党を離脱した無所属のエンリケス候補で得票率20.1%、4位は共産党などで結成した左翼連合のアラテ候補で得票率6.2%であり、過半数の得票を得た者がいなかったため、1位と2位との決選投票が2010年1月17日に行われた。この結果、チリのための同盟のセバスティアン・ピニェラが51.6%を獲得し初当選した。与党連合のコンセルタシオン・デモクラシアのエドゥアルド・フレイ元大統領は48.4%であった。 ピノチェト軍事独裁政権以来、ピノチェトの流れを組む右派政治家が大統領になるのは初めてのことである。実業家出身のビニェラは、経済成長を目的に民間部門の活用をより重視する企業寄り、市場寄りの政策をとった。ただし、彼は軍政を敷いたピノチェトの信任を問う国民投票では、退陣運動に参加した経験の持ち主でもあり、コンセルタシオン・デモクラシアが進めた政策を全面否定はしておらず、貧困層向けの社会計画の継続を公約するなど、それまで中道左派政権が担ってきた国民本位の政策を実施しようとした。 2013年12月15日の大統領選挙では、コンセルタシオン・デモクラシアから改まった新多数派を構成するチリ社会党の前大統領のミシェル・バチェレ氏が勝利し、2014年より第二次バチェレ政権が誕生した。 2018年には2017年11月27日の選挙で勝利した、右派のセバスティアン・ピニェーラが4年ぶりに大統領に返り咲いた。第二次ピニェーラ政権ではより右傾化色を強めたことで、国民の反発を招き、2019年にはピノチェト軍事独裁政権時以来最大となる大規模な反政府デモが起きている。 2021年5月15-16日、軍政時代から続く憲法を代わる新憲法案を起草する制憲議会の選挙が行われた。また、同年の大統領選挙では左派のガブリエル・ボリッチが当選した。
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民政移管以降(1985年-)
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「ウルグアイの歴史」の記事における「民政移管以降(1985年-)」の解説
1984年に行われた選挙ではコロラド党が勝利し、翌1985年にコロラド党のフリオ・マリア・サンギネッティが大統領に就任し、民政移管が完了した。民政移管後は他国と同様に、軍事政権下で人権侵害に関わった軍人や、テロ活動を行ったトゥパマロスの組織員の恩赦が大きな問題となったが、1988年に恩赦は国民投票で承認された。 1990年にはブランコ党からルイス・アルベルト・ラカージェ(スペイン語版)が大統領に就任した。ラカージェ政権では1990年代のラテンアメリカで猛威を奮っていた新自由主義が国民投票で否決された。また、域内の経済統合が進み、1991年3月26日にアルゼンチン、ブラジル、パラグアイと共にアスンシオン条約(英語版)を締結し、メルコスールの設立が宣言された。1995年にメルコスールが正式に発足するとモンテビデオに事務局が置かれた。 1995年にはコロラド党から第二次サンギネッティ政権が成立した。コロラドは2000年の大統領選挙でもホルヘ・バッジェのもと政権を維持したが、2001年のアルゼンチン金融危機の影響を受けて経済は大打撃を受けた。 2005年の大統領選挙では拡大戦線からタバレ・バスケスが勝利し、建国以来続いたコロラド党とブランコ党の二大政党制に終止符を打った。
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民政移管以降(1989年-)
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「パラグアイの歴史」の記事における「民政移管以降(1989年-)」の解説
クーデター後、ロドリゲス将軍は1989年5月1日に行われた大統領選挙に勝利し、民主主義への移行を目指して1992年に新憲法を公布した。1993年5月の大統領選挙ではコロラド党のフアン・カルロス・ワスモシ(スペイン語版)が当選した。ワスモシは陸軍総司令官のリノ・オビエド(スペイン語版)によるクーデター未遂事件に直面したため、オビエドは投獄されたが、1998年にコロラド党からラウル・クバス(スペイン語版)が大統領に就任すると恩赦で釈放された。1999年3月に反オビエド派のルイス・アルガーニャ(スペイン語版)副大統領が何者かに暗殺されると、クバスは引責辞任し、上院議長のルイス・アンヘル・ゴンサーレス(スペイン語版)が大統領に就任した。2003年の大統領選挙ではコロラド党のニカノル・ドゥアルテが勝利し、大統領に就任した。2008年の大統領選挙では中道左派の野党連合変革のための愛国同盟(英語版)のフェルナンド・ルーゴ元神父が勝利し、1947年のパラグアイ内戦から61年続いたコロラド党政権は終焉した。
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民政移管以降
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1979年には新憲法下初の選挙により、キリスト教民主主義の人民結集党のハイメ・ロルドス・アギレーラが大統領に就任した。ロルドスは民主主義、社会正義を訴え、ニカラグアでの内戦に際し、アナスタシオ・ソモサ・デバイレ独裁政権と断交してサンディニスタ民族解放戦線を支持した。しかし1981年 5月24日にロルドスは飛行機事故で急死し、オスバルド・ウルタード副大統領が大統領に昇格した。1982年までにウルタード政権は慢性の政情不安に加えてハイパーインフレ、財政赤字、国内産業の競争力低下などの経済恐慌に直面し、緊縮政策を採ることとなった。1984年にはキリスト教社会党からレオン・フェブレス・コルデーロが大統領に就任した。この政権は親米路線をとったが、1987年大地震が発生。石油パイプラインが破壊されるなど激甚な被害を受け、対外債務利子支払い停止の緊急措置を発動した。 1988年に民主左翼党から就任したロドリゴ・ボルハ大統領は、財政赤字の削減、インフレ抑制に尽力するが国民の不満によって退陣した。1991年埋蔵石油をめぐりペルーと国境紛争がおきていたが、この年、両国は非武装地域の設置で合意した。1992年には共和連合党からシスト・ドゥラン・バジェンが大統領に就任した。保守派のドゥラン政権は新自由主義政策を進め、石油輸出国機構からも脱退した。さらにドゥラン政権は1995年にペルーのアルベルト・フヒモリ政権と再びアマゾンの領有主張地域を巡って衝突したが、このセネパ紛争で敗北した。1996年にエクアドル・ロルドス党からレバノン系のアブダラ・ブカラムが大統領に就任した。ブカラムは当初はポプリスモを公約に掲げて就任したが、就任後は一転して直ちに新自由主義政策を採った。奇行と腐敗政治がなされ、民衆蜂起と国会の罷免や軍の運動により、ブカラムは1997年2月に失脚し、パナマに亡命した。 1998年に人民民主党から就任したレバノン系のハミル・マワ大統領は、同年10月26日に結ばれたブラジリア議定書によりアマゾン地域の放棄を正式に認め、国民もこの措置を受け入れた。以降ペルーとの友好関係が不本意ながらも再開することになった。しかし、ハイパーインフレは年々悪化し続け、2000年には25,000スクレが1米ドルに値するほどエクアドルの通貨価値は低下していた。2000年1月9日にマワ大統領は進行中の経済恐慌を防ぐためにエクアドルの公式の通貨として米ドルを採用する意志を発表した。2000年9月10日にエクアドルの通貨に米ドルを正式採用し、それまで流通していたスクレは使用されなくなった。しかし、民衆の不満は募り、救国評議会の蜂起によりマワが失脚すると、アルバロ・ノボアが暫定大統領に就任した。 2003年に軍と先住民組織の支持により、ルシオ・グティエレスが大統領に就任するが、情勢不安定と経済不況が続き、2004年12月の特別国会で最高裁判事の大部分を更迭した。しかし、この措置に対する批判が高まり、全国規模でデモが展開され、2005年4月に、国会はグティエレス大統領を罷免した。同月、副大統領アルフレド・パラシオが大統領へと就任した。 2006年11月26日にアルバロ・ノボアとラファエル・コレアが大統領選挙に出馬し、コレアが1979年以来の最高有効票を獲得して大統領に就任した。 コレアはベネズエラのウゴ・チャベス政権や、ボリビアのエボ・モラレス政権などの反米左派政権との関係を深め、親米右派を掲げるコロンビアのアルバロ・ウリベ政権に対する干渉的な政策を採っている。
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