パラグアイ内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/11 00:47 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2014年7月)
|
パラグアイ内戦 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
冷戦中 | |||||||
|
|||||||
衝突した勢力 | |||||||
支援: |
![]() ![]() ![]() |
||||||
指揮官 | |||||||
![]() ![]() |
![]() |
||||||
戦力 | |||||||
20,000 | 3,000 |
パラグアイ内戦とは、パラグアイにおいて1947年の3月から8月まで続いた武力衝突である。
1940年、イヒニオ・モリニゴ大統領は憲法を停止し、政党を禁止した。彼の支配への抵抗はゼネラル・ストライキと学生の暴動を引き起こした。1946年、モリニゴは政治活動を合法化し、二月党とコロラド党からなる内閣を組織した。二月党員は1947年初頭に連立を破棄し、これに対して怒ったモリニゴはコロラド党を支持するようになった。
二月党員は自由党及びパラグアイ共産党と共同戦線を張り、ラファエル・フランコはパラグアイ軍を反乱軍として率いて内戦が勃発し、以前は忠誠を保っていた軍も、海軍のほぼ全てと陸軍の一部が反乱に加わった。モリニゴは、アルフレド・ストロエスネルも加わっていたコロラド党を助け、反撃に成功すると結局は優勢に至り、1947年8月には決定的な反撃を加えて国家の支配を完全なものにし、勝利した。
パラグアイ内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 22:43 UTC 版)
「パラグアイ内戦」も参照 第二次世界大戦後、イヒニオ・モリニゴ将軍によって軍政が敷かれていたパラグアイでも民主化要求が高まったため、1946年7月にモリニゴは政党活動を全面的に自由化し、併せてコロラド党、二月党との連立内閣を組閣したが、閣内での二月党とコロラド党の対立が激化したため、1947年初頭にモリニゴはコロラド党と軍部に依拠して二月党の指導者を国外追放した。この措置に対して3月7日に二月党が首都アスンシオンで反乱を起こし、翌8日にこの反乱に呼応した軍の一部がコンセプシオンでモリニゴに対して反乱を起こすと、軍部将校の8割がこの動きに呼応し、パラグアイは内戦状態に陥った。モリニゴはアルゼンチンのペロン政権からの武器援助とコロラド党を支持する農民の軍事力を得て反乱を鎮圧することに成功し、内戦は8月19日に終結したが、モリニゴは報復に二月党、自由党、共産党などの反乱を支持した諸政党に対する大弾圧を図ったため、20万人から40万人と推計される反政府派パラグアイ人が亡命することとなった。 内戦終結後、モリニゴ自身がクーデターで失脚するなどパラグアイの政治的不安定は頂点に達したが、この混乱は1949年9月に就任したフェデリコ・チャベス(スペイン語版)大統領によって収拾された。しかし、チャベスもまた1954年5月に軍部のクーデターによって失脚した。後に続いたのは、ラテンアメリカでも稀に見る長期の独裁政権だった。
※この「パラグアイ内戦」の解説は、「パラグアイの歴史」の解説の一部です。
「パラグアイ内戦」を含む「パラグアイの歴史」の記事については、「パラグアイの歴史」の概要を参照ください。
- パラグアイ内戦のページへのリンク