パラグアイ内戦
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パラグアイ内戦とは、パラグアイにおいて1947年の3月から8月まで続いた武力衝突である。
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- 2 パラグアイ内戦の概要
パラグアイ内戦
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「パラグアイ内戦」も参照 第二次世界大戦後、イヒニオ・モリニゴ将軍によって軍政が敷かれていたパラグアイでも民主化要求が高まったため、1946年7月にモリニゴは政党活動を全面的に自由化し、併せてコロラド党、二月党との連立内閣を組閣したが、閣内での二月党とコロラド党の対立が激化したため、1947年初頭にモリニゴはコロラド党と軍部に依拠して二月党の指導者を国外追放した。この措置に対して3月7日に二月党が首都アスンシオンで反乱を起こし、翌8日にこの反乱に呼応した軍の一部がコンセプシオンでモリニゴに対して反乱を起こすと、軍部将校の8割がこの動きに呼応し、パラグアイは内戦状態に陥った。モリニゴはアルゼンチンのペロン政権からの武器援助とコロラド党を支持する農民の軍事力を得て反乱を鎮圧することに成功し、内戦は8月19日に終結したが、モリニゴは報復に二月党、自由党、共産党などの反乱を支持した諸政党に対する大弾圧を図ったため、20万人から40万人と推計される反政府派パラグアイ人が亡命することとなった。 内戦終結後、モリニゴ自身がクーデターで失脚するなどパラグアイの政治的不安定は頂点に達したが、この混乱は1949年9月に就任したフェデリコ・チャベス(スペイン語版)大統領によって収拾された。しかし、チャベスもまた1954年5月に軍部のクーデターによって失脚した。後に続いたのは、ラテンアメリカでも稀に見る長期の独裁政権だった。
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