ジャーナリストとしての活躍と政界進出
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「中野正剛」の記事における「ジャーナリストとしての活躍と政界進出」の解説
1909年(明治42年)早大を卒業し、同級生だった風見章とともに、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社。次いで東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に移り、「戎蛮馬」のペンネームで「朝野の政治家」「明治民権史論」などの政治評論を連載し、政治ジャーナリストとして高い評価を得た。この間、1913年(大正2年)に三宅雪嶺の娘・多美子と結婚している。仲人は、頭山満と古島一雄であった。 1916年(大正5年)に東京朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。東方時論社に移った翌年の1917年(大正6年)、衆議院議員総選挙に立候補するも、落選(立候補した選挙区の当選者は松永安左エ門)。 しかし、日本外交を批判的に論考した『講和会議を目撃して』がベストセラーとなり、勢いをつけ、1920年(大正9年)の総選挙で当選する。以後、8回当選。当初は無所属倶楽部を結成するが、1922年(大正11年)に革新倶楽部結成に動く。その後も憲政会・立憲民政党と政党を渡り歩いた。1925年にカリエスが悪化し、左足を切断、義足となる。 民政党時代は、党遊説部長として、永井柳太郎と臨時軍事費問題や張作霖爆殺事件を田中義一内閣に迫り、反軍派政党人として名を馳せた。また、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、三木武吉の後任の大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。
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