ジャーナリストから州首相に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 04:29 UTC 版)
「ヴォルフガング・クレメント」の記事における「ジャーナリストから州首相に」の解説
ノルトライン=ヴェストファーレン州ボーフム生まれ。アビトゥーア合格後、ドルトムントの『ヴェストフェリッシャー・ルントシャウ』(Westfälischer Rundschau) 紙で働いた後にミュンスター大学で法学を学び、1965年に第一次法曹試験に合格。司法修習生となりマールブルク大学で助手を務めてから1968年に再び『ヴェストフェリッシャー・ルントシャウ』で政治部記者として勤務し、政治部長ついで副編集長を務めた。 1970年に SPD に入党。新聞社勤務後の1981年から1986年まで SPD 連邦幹事会報道官、1985年から翌年まで党連邦事務局副局長を務めた。1986年から『ハンブルガー・モルゲンポスト』(Hamburger Morgenpost) 紙に転じて編集長を務めていたが、1989年にノルトライン=ヴェストファーレン州首相のヨハネス・ラウに招聘され、州首相官房長に就任した。1990年の州議会選挙後、州の特命大臣に就任。1993年、繰り上がりでノルトライン=ヴェストファーレン州議会議員となり、1995年の州議会選挙後、経済・中小企業・技術・交通相に就任した。 1996年から SPD の州副代表を務め「ラウの皇太子」と呼ばれていたクレメントは、ラウの勇退(翌年連邦大統領に就任)を受けて1998年5月27日にノルトライン=ヴェストファーレン州首相に選出された。就任直後の6月17日、州の司法省と内務省を統合すると発表したが、野党や法律家の専門家から「権力分散の原則に反する」として激しく批判された。翌年州憲法裁判所はこの決定を違憲と裁定した。クレメントはなおもこの案に固執したが、連立を組む同盟90/緑の党(緑の党)の圧力によりあきらめざるを得なくなった。1999年から SPD 副党首に就任。2000年の州議会選挙で SPD は得票率 42.8 % とやや減らしたものの、緑の党との連立で政権を維持した。しかし緑の党とは州の伝統的産業である石炭採掘の継続や産業振興計画をめぐって対立することが多かった。任期中は閣僚に企業との癒着疑惑が持ち上がったほか、クレメント自身も首相府移転に絡んだ癒着疑惑を持たれた。
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