ジャーナリストから伝記作家へ
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「ジャン・ラクチュール」の記事における「ジャーナリストから伝記作家へ」の解説
ラクチュールはソ連のフルシチョフから米国のキッシンジャー、カンボジアのシハヌークから米国のロバート・ケネディ、エジプトのナセルまで多くの著名な政治家に取材し、記事だけでなく著書も発表した(シアヌークとの対談『北京からみたインドシナ』、伝記『ナセル』など)。一方で、左派のジャーナリストとして主に社会主義国やフランスの植民地で急速に変化する戦後の情勢、不透明な情勢を取材した彼は、ときに判断を誤ることもあった。特にアルジェリア民族解放戦線内部の対立を過小評価したこと、文化大革命やクメール・ルージュに間違った期待を抱いたことであり、カンボジア情勢については誤りを認めて1978年に『カンボジア人民よ、生き延びよ!』を著し、さらに、ジャーナリストとしての活動を振り返って『インクの血』を発表した(著書参照)。 ラクチュールはエジプト、モロッコ、インドシナ、ベトナムの情勢や現役の政治家に関する著書(伝記)を発表した後、1970年代中頃から時事問題から離れ、『アンドレ・マルロー』(1973年、現代の政治・歴史に関する著書に与えられる今日賞受賞)、『レオン・ブルム』、『フランソワ・モーリアック』、『ピエール・マンデス=フランス』、代表作の『ド・ゴール』などの伝記を発表し始めた(著書参照)。ジャーナリストから伝記作家への転身であり、むしろ詳細な注釈を付した歴史学的な記述を試みている。これは、たとえば、『アンドレ・マルロー』の謝辞にジャック・ジュイヤール(フランス語版)、ミシェル・ヴィノック、ピエール・ノラらの名前が挙がっていることからも明らかであるが、これは主にアナール学派の影響で、ジャーナリズムとアカデミズムの境界がしばしば曖昧になったことが背景にある。たとえば、歴史学者のアニー・クリージェル(フランス語版)やピエール・ショーニュ(フランス語版)は『フィガロ』紙、フランソワ・フュレ、ドニ・リシェ(フランス語版)、ジャック・ジュイヤール(フランス語版)は『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』紙に歴史・政治に関する記事を寄稿し、ジャン・ボトレル(フランス語版)、フランツ=オリヴィエ・ジズベール(フランス語版)、カトリーヌ・ネイ(フランス語版)らのジャーナリストが歴史書、主に20世紀の政治家の伝記を書くようになった。こうした動向についてラクチュールは、「ジャーナリストがにわか仕込みの知識で歴史学者の役割を担うのはもう珍しいことではないが、フランソワ・フュレやジャック・ジュイヤールのような正真正銘の歴史学者がこれほど熱心かつ継続的にジャーナリズムに関わるのはかつてないことだ」と書いている。 彼はジャック・ル・ゴフとピエール・ノラを中心とするアナール学派の第三世代による史学史の研究「新しい歴史学(フランス語版)」(流派、雑誌)に参加し、ミシェル・ヴォヴェル、クシシトフ・ポミアン(フランス語版)、アンドレ・ビュルギエール(フランス語版)、フィリップ・アリエス、ギィ・ボワ(フランス語版)、ジャン=クロード・シュミット(フランス語版)らの歴史学者と共に活動し、ジャーナリズムから離れると同時に、アカデミズムからも距離を置きながら、伝記作家という立場を確立していった。 さらに、こうした活動の一環として、スイユ社の現代史・時事問題の叢書「リストワール・イメディアット(L’Histoire immédiate、直近の歴史・差し迫った問題)」を1961年に創刊。一般書としても専門書としても好評を博すことになった。また、ミシェル・ヴィノックとスーフィズム(イスラム神秘主義)専門の哲学者ミシェル・ショドキーウィチ(Michel Chodkiewicz)が1978年に創刊し、同じスイユ社の子会社が刊行する歴史雑誌『リストワール(フランス語版)(歴史)』誌の編集委員を務め、社会党議員のアラン・ルーセ(フランス語版)が1990年にペサック国際歴史映画祭(フランス語版)を創設した際には、ヴィノックとともにこれに参加した。
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