戦後の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 23:03 UTC 版)
この動乱で龍野赤松氏は浦上宗景に屈し、有利な条件で講和を結んだ浦上宗景が龍野赤松氏の領地の一部を手に入れ、版図を拡大した。また、赤松政秀は元亀元年(1570年)に浦上家に暗殺された。 そして上記のように赤松宗家は既に織田に恭順の意を示していたが[要出典]、織田軍の強さを知った浦上宗景もまた程なくして織田へと接近し、かねてより毛利家と険悪だったこともあって中国地方の反毛利大名として活発な活動を見せるようになる。
※この「戦後の情勢」の解説は、「青山・土器山の戦い」の解説の一部です。
「戦後の情勢」を含む「青山・土器山の戦い」の記事については、「青山・土器山の戦い」の概要を参照ください。
戦後の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 09:13 UTC 版)
川上峡合戦は龍造寺隆信の大勝に終わり、神代勝利に壊滅的な打撃を与え、山内を制圧したものの勝利・長良親子は取り逃がした。隆信は山内衆の仕置について山岳地帯でのゲリラ的な抵抗を忌避し強攻策を執らず、山内衆への誅伐の沙汰を一旦差し置いて代官を置くに留めた。 一方で勝利は山内の維持すら不可能と見て、西肥前は松浦郡まで逃亡。そこから波佐見(現長崎県波佐見町)に入り、大村純忠の庇護を受けていたが、敗戦からわずか3ヶ月の同年12月中旬には山内衆の手引で密かに復帰を果たし、龍造寺の代官を殺して瞬く間に山内衆の頭領に返り咲いた。 その後も隆信は謀略を用いて勝利の排除を目論んだが成功せず、永禄5年(1562年)についに勝利排斥を断念して隆信の方から和睦の使者を送り、勝利も川上峡合戦での打撃からもはや龍造寺に抗し得ないとしてこれを受け入れた。後日、神文の誓紙を交わして長良の娘と隆信の三男、鶴仁王丸(後の後藤家信)の将来の縁組と龍造寺胤久の妹を一旦隆信の義妹として勝利の内室とする事で和議が成立した。
※この「戦後の情勢」の解説は、「川上峡合戦」の解説の一部です。
「戦後の情勢」を含む「川上峡合戦」の記事については、「川上峡合戦」の概要を参照ください。
- 戦後の情勢のページへのリンク