戦後の成長期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:51 UTC 版)
県南バスは1949年に大船渡に拠点を設置したのを皮切りにエリアを拡大し、1950年には貸切バス事業免許(貸切免許)を取得した。一方、岩手東部乗合自動車は1948年のアイオン台風によって国鉄山田線が長期にわたって不通になった際に代行バス輸送を担当、1951年まで続いた。1951年に岩手東部乗合自動車は東部バスに社名変更したが、この頃になると県南バスとのエリア重複による不合理が目立ってきたため、1957年に東部バスは県南バスの傘下に入ることになり、1966年には正式に合併した。 岩手中央自動車は戦後間もない1948年に花巻地区を花巻バスとして分離した。その後は順次営業エリアを拡大するが、急激に車両数を増加させたことで運行コストの増大を招き、1960年以降は赤字決算となっている。分離した花巻バスは1958年までに30路線を開設するなど、やはり営業エリアを順次拡大していった。 1950年代は長距離バス路線展開が各社とも目立った。県南バスが1951年10月に一関と気仙沼を開設する路線を開設したのを皮切りに、1953年には中央バスと東部バスが相互乗り入れの形で盛岡と釜石を結ぶ路線を開設した。1955年に運行開始された盛岡と大船渡を結ぶ路線では中央バス・東部バス・県南バスの3社競願となり、最終的に県南バスが運行することとなった。 しかしながら、この時期はまだ道路事情はさほど良くなかったため、東北本線と並行する路線では鉄道の電化・複線化には対抗力を持たせることができず、運行休止や区間短縮を余儀なくされた。一方で、その他の路線では鉄道側の輸送改善があまり進まなかったため、他の地域と比較すれば残存路線は多い方であった。
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