戦後の戦闘詳報
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ここでは戦後の戦闘詳報の行方調査に資することを考慮し、保管・移送の様態についても述べる。 敗戦により文書焼却命令が下った際、戦闘詳報も多くが焼かれたが、海軍では人事局功績調査部が山梨県韮崎に疎開させた物と、海軍省が神奈川県大倉山に保管していた物は焼却を免れ、後者は進駐軍の命で押収となり、前者も東京への移送中に進駐軍に押収された。押収に当たったのは『敵国資料押収機関』(Washington Document Center,WDC)である。同機関は1943年から活動をはじめており、1945年8月29日には第2回日本文書会議で、日本国内の文書の選別・アメリカ本国への送付業務のためWDC前方部隊(WDC Advanced Echelon)を設置することを決めた。なお、公式戦史の作成については文書焼却後間もなく海軍大臣米内光政の命の下、軍令部作戦部長の富岡定俊が戦史の史料部を海軍省に設け、後年研究家として知られ、史料調査会理事を務めた福井静夫などもその作業に当たっている。しかし、日本側単独での作成作業は進駐軍命令により中止に至り、各級指揮官への陳述記録が作成される一方、多くの史料がアメリカ本土に渡った。WDC前方部隊は、1946年3月には主要な作業を終了して帰国した。その後作業は翻訳通訳部文書課(TIS Document Section)に引き継がれた。押収文書は航空母艦に格納された後、駆逐艦で海を渡った。1946年11月までに日本からWDCに477,894点の文書が送付されたと言う。海軍の戦闘詳報もその中にあった。その後、WDC図書館が管理する事となったがここが保有していた戦闘詳報の数は不明である。 その後、WDCは1948年に解体され、日本側の記録は議会図書館(LC)、アメリカ国立公文書館(ナショナル・アーカイブス)などに引き継がれた。更に、第二復員省が編纂した第二次大戦終戦時の日本海軍艦艇』の寄贈と引換えの形で文書の返還交渉がスタートした。アメリカ側も日本が西側に組み込まれるに至った事から、国防総省は1955年に、ドイツへの接収文書返還の例に準じて、アメリカ及び友好国の安全保障を害する文書と公的研究に利用中の文書を除き、原則返還する方針をとることを決めた。1958年その第一弾としてナショナル・アーカイブス所蔵の陸海軍、内務省文書など41,000点が返還され、防衛庁防衛研修所戦史室に収蔵された。その際に海軍の戦闘詳報も含まれており、その数は1,400綴と記されていたが、実際確認されたのは1,219綴であり、中味の一部が抜き取られた物もあり、1,400綴自体が押収の総数ではないと言う。戦闘詳報に限ったことでは無いが、現在でも時折アメリカにおいて当時の公文書資料が発見されるのはこうした事情に拠る。なお、返還時点でアメリカは押収文書をマイクロ化する計画を持っていたが、その作業が5%程度進捗した状態での返却となった。 戦闘詳報は内容の性質上作成時は多くが軍機に指定され(綴表紙に刻印がある)、一般に販売される事も通常は無く、元軍人、研究者や評論家がその説明を一般向けに詳しく行うことも少なかった。しかし、アテネ書房は1995年、太平洋戦争時の日本海軍の戦闘詳報について主要戦闘276件分を収録して『連合艦隊海空戦戦闘詳報』20巻(別巻2巻を含む)を刊行、更に2000年頃より後年大和、武蔵など個艦、部隊別に編纂採録した版を刊行した。これにより多くの人々が戦闘詳報を分析する機会が提供された他、近年はアメリカ軍のアクションレポートについても日本側研究者による検討、一部の邦訳などが進みつつある。
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