戦後の技術確立の時代(1945年 - 1955年頃)
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「日本のディーゼル機関車史」の記事における「戦後の技術確立の時代(1945年 - 1955年頃)」の解説
戦後間もない頃、石炭の供給が極端に不足していたため、国鉄および一部の私鉄では電化が進められた。しかし1950年以降、ドッジ・ラインと朝鮮戦争の影響による物価高騰により電化は困難となり、一方で石油の輸入規制緩和が実施されたことから、ディーゼル機関車に対する関心が強まり、急速に技術が向上し、普及していった。このとき、放置されていた戦前製内燃機関車が再生された例もある。また、大阪の森製作所が手がけた一連の機関車のように、中小私鉄向けに蒸気機関車の台枠と車輪を再利用し、台枠の上にエンジンと運転装置を載せることで安価にディーゼル機関車を製造した事例も見られた。 国鉄では1953年、初の幹線用電気式ディーゼル機関車DD50形を製造した。これは新三菱重工業が船舶エンジン分野で技術提携していたスイスのスルザー社の設計したエンジンをライセンス製作して搭載している。北陸本線米原 - 敦賀間で使用された。しかし、蒸気機関車に比して単位出力あたりの重量が重く非力で重連運転常用であることや、客車用の暖房装置を設置していないため客車列車運用には不向きであることなどから、本格的な量産には至らなかった。 1954年には国鉄初の液体式ディーゼル機関車であるDD11形が製造されたが、気動車用のDMH17エンジンと変速機をそのまま使用しており出力は低く、火気厳禁の場所での入換用として使用された程度で、やはり本格的な量産には至らなかった。 私鉄用の機関車は要求される出力が50 - 150PS程度で、同時代の気動車や大型自動車と多くの部品を共用できた。エンジンも大戦前からの技術向上に加え、太平洋戦争直前に戦車等の軍用車両用として規格化された80PS - 200PS級「統制ディーゼルエンジン」の制定や、民生デイゼル工業のクルップ式KD型2ストロークエンジンなどの開発が進み、それらの戦後の一般自動車エンジン転用過程で製造技術が確立・安定してきたこともあって、ほぼ国産が可能であった。またこの種の軽用途では、変速機も簡易な機械式変速機で十分で、気動車・自動車用の既存変速機も流用できた。大手メーカーでは汽車製造がこの種の小型機関車に一時期取り組んでおり、国鉄DD11形もその発展形と言うべきものであった。 これに対し、国鉄幹線での使用に供しうる1,000PS級の大出力ディーゼルエンジンは、日本国内ではほとんど実用化されておらず優れた欧米メーカーのライセンス生産により製造するしかなかった。ライセンス料によるコスト高や契約による仕様変更への制約、そして国鉄自身の国産優先主義などが、それらの優れた性能のエンジンを日本で積極採用することを妨げた。大出力の動力伝達手段も、1950年代前半には高コストな電気式採用以外に選択肢がなかった。 ドイツでは第二次世界大戦期にこのクラスの中速・高速ディーゼル機関がUボート(潜水艦)やSボートなどの高速艇向けに開発されており、第二次大戦後にも、民間船舶用や再軍備に伴う艦艇用軍需と軌を一にして鉄道向けに広く応用された事実があるが、日本の帝国海軍はドイツ海軍とは異なり、機関車に応用の利く1000PSクラスの船舶用エンジンは大戦末期に64号内燃機関(三菱重工業ZC707形)が実用化されるまで量産されていなかった。戦中と戦後に島秀雄は技術の遅れを指摘した上で鉄道車両用にこのエンジンを使用することを提案したが、幹線電化の方針を固めていた当時の国鉄には大出力ディーゼル機関車の開発という発想すらなかったのか受け入れられずに終わった。後に島自身はこの提案が受け入れられなかった理由として、良質な燃料が手に入らない状況下では高速運転ができず、低質の燃料での中速運転に使うには重すぎたと回顧している。 また戦後の純国産設計による鉄道用大型ディーゼルエンジン開発では、当時最も進歩的で開発能力も高かった大型自動車メーカー各社の関与を欠いていた。主として新潟鐵工所や振興造機など国鉄と歴史的関係の深いエンジンメーカーが、国鉄との協力のもとエンジン設計・生産に当たったが、国鉄技術陣・メーカー側とも開発力は不十分だった。
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