歴史的関係
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「イスラム教と他宗教との関係」の記事における「歴史的関係」の解説
現実世界におけるイスラム教徒と異教徒との関係は極めて多様であり、イスラム法上の規定通りではない部分も多い。比較的異教徒に寛大だったイスラーム政権として後ウマイヤ朝、オスマン帝国、そしてムガル帝国を挙げることが出来る。 まず後ウマイヤ朝ではキリスト教徒とユダヤ教徒の権利はかなりの程度保護されており、この時代においては稀なほど寛容の精神が発揮された。このような精神はイベリアのキリスト教国の間にも広まり、少なくともレコンキスタの本格化までの間、イベリア半島は宗教的寛容が支配する地域となった。 オスマン帝国ではスルタンがローマ帝国皇帝を兼任していたためキリスト教徒の高官も前期には多く存在しており、平等ではないもののかなりの寛大な取り扱いがクリスチャンを中心とする非ムスリムに対して行われた。当時ヨーロッパで迫害されていたユダヤ教徒がオスマン帝国に多く流入してきたこともこれを証明している。とはいえ18世紀以降は帝国のアイデンティティーはイスラムに絞られ、ズィンミーの権利も徐々に縮小されていった。 最後にムガル帝国における宗教的寛容はイスラムの歴史上特筆するべきものとされている。これはイスラムが共存せねばならない相手が仏教やヒンドゥー教などの多神教であり、イスラム原理主義からすれば最も忌み嫌われる信仰であること、またムガル帝国における宗教的寛容は他のどのイスラム王朝にも増して強いものであり、一時はイスラム法の限界を超えるものだったことが理由である。 インドにおけるイスラームの寛容の精神は、ムガル帝国の3代皇帝アクバル以降のジズヤ廃止に象徴され、インドはこの時代最も宗教に寛容な国となった。またイスラームとヒンドゥーの対話は民間においても進展し、カビールの思想やナーナクのシク教となって結実した。アクバル帝の孫ダーラー・シコーはヒンドゥー教とイスラム教の対話を纏めた書物『二つの海の交わる所』を記し、イスラームとヒンドゥーとの融和を説いた。 とはいえこの宗教的に寛容な時代は、ダーラーの弟アウラングゼーブに対する敗北によって終焉を迎えた。アウラングゼーブは異教徒に対し極めて厳しい態度を取り、ジズヤの復活にとどまらず、イスラム法に依り保障されたズィンミーとしての権利(生命権・財産権・信教の自由)にすら制限を加えた。彼の時代には多くの非ムスリムが虐殺され、寺院は破壊された。但しこれに対しては、イスラム法上ズィンミーとして扱われるのはあくまでアブラハムの宗教のみであり、多神論者や無神論者には『剣かコーランか』を迫るのが正しいとする、現在のワッハーブ派などにも見られる原理主義的イスラム法解釈を挙げて、理論上は明確にイスラム法違反とはいえないとする意見もある。とはいえこの時代このようなイスラム法解釈はかなり稀で全ての異教徒をズィンミーとして扱うことが慣例だったのも事実である。 反対にイスラム教徒が非イスラム教徒の支配する地域に住んだ場合であるが、前述したとおり中世イベリアにおいてはキリスト教国においてイスラム教徒は公認された異教徒としての権利を保障され、ユダヤ教徒同様一定程度の権利と信仰の自由を与えられた。とはいえ多くの欧州キリスト教国ではイスラム教徒への敵意は根強く近世に至るまでこの種の不平等な共存すら稀であった。
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歴史的関係
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「アフリカと中国の関係」の記事における「歴史的関係」の解説
中国とアフリカの間には、紀元前202年から西暦220年までさかのぼり、時には第三者を介した貿易史がある。2世紀の北アフリカ(エジプト、アエギュプトゥス)で活動したプトレマイオスは、シルクロードの陸路と航路それぞれの交易相手として、中国人を二つの民族として認知していた。一方は絹の民「セレス」(Seres)、もう一方は南方貿易の民「シナイ」(Sinai)であり、後者の名前はおそらく秦朝に由来している。 アフリカ人で最初に中国と接触したのは、アジュラーン・スルタン国のソマリ族だったと考えられている。同国の跡地にあたるモガディシュとタンザニアのキルワでの考古学調査では、中国由来の通貨が多く発見されている。リチャード・パンクハースト(英語版)によると、その通貨の大部分は宋代のものであるが、明代と清代も含まれているという。ソマリ族の商人は、キリンやシマウマ、香料などを中国の明朝に輸出し、アジアとアフリカ間の交易のリーダーとなった。 14世紀、モロッコの旅人兼学者のイブン・バットゥータは、アフリカやアジアへの長い旅をした。彼はインドに滞在した後、1345年4月に中国に到着した。その後、インドのトゥグルク朝のスルタン・ムハンマド・ビン・トゥグルクの中国への使者として仕えた。彼は以下のように書いている。 中国は旅人にとって最も安全で、最もよく規制された国である。大金を所持して9ヶ月の一人旅に出ても、何の不安もなく行くことができる。絹は貧しい僧侶や乞食の衣服にさえ使われている。磁器は陶磁器の中で最高のものであり、鶏は我が国のガチョウよりも大きい。 一方、中国の文献で最初にアフリカに言及したのは、9世紀唐代、段成式の『酉陽雑俎』である。これは雑多な知識を集めた書物で、その中にソマリア北部の港町ベルベラを指す土地の記述がある。宋代の1226年には、中国福建の港町泉州の市舶司、趙汝适が、ソマリアやザンジバルについての地誌『諸蕃志』を著した。 明代の提督、鄭和が艦隊を率いておこなった大航海(鄭和の大航海)は、インド洋沿岸を通ってソマリア沖およびアデン湾をまわった後、モザンビーク海峡まで海岸線をたどっていった。この遠征の目的は、中国文明を広め、中国の強さを示すことであった。鄭和は明の皇帝永楽帝からの贈り物を持参し、現地の支配者に称号を与え、朝貢国の成立を目指した。1415年10月、鄭和はアフリカの東海岸に到達し、永楽帝への贈り物として2頭のキリンの最初のものを送った。 鄭和の大航海に関しては、ケニア沖のラム島(英語版)に関する、次のような逸話がある。考古学者はケニアの村で唐代に作られた中国の磁器を発見しているが、これらは鄭和が持ち込んだものと考えられている。また、地元の口承によれば、数百年前、鄭和の船団の一員であった可能性のある中国人船員20人が、そこに漂着したとされる。彼らは危険なニシキヘビを退治した後、地元の部族に定住許可を与えられ、イスラム教に改宗し、地元の女性と結婚した。現在、彼らの子孫はわずか6人しか残っていないと考えられている。2002年に女性の一人にDNA検査が行われ、彼女が中国系であることが確認された。その後、彼女の娘にあたるムワマカ・シャリフ(Mwamaka Sharifu)が、中国政府の奨学金を得て、伝統的な中国医学(TCM)を学ぶために中国に留学した。 そのようなラム島に関しては、ナショナルジオグラフィックが2005年7月に、記者フランク・ビビアーノ(英語版)による次のような記事を掲載している。彼がラム島に滞在中、ラム群島(英語版)を構成するパテ島(英語版)を訪れていたとき、ラム島周辺で陶器の破片が発見された。地元のスワヒリ歴史博物館の行政官は、それらが中国、とくに鄭和の東アフリカ航海時の物と主張した。パテ族の目は中国人に似ていて、ファマオとウェイという名前はその中のいくつかの名前で、中国起源ではないかと推測された。彼らの祖先は、中国の明の船員が難破した際に結婚した先住民の女性から来たと言われている。パテ島の2つの場所は「オールド・シャンガ」と「ニュー・シャンガ」と呼ばれ、中国の船員たちが名付けた場所であった。中国人の子孫だと主張する地元のガイドがフランクに島のサンゴで作られた墓地を見せたが、それは「半月状のドーム」と「段々の入口」を完備し、中国の明代の墓とほぼ同じと著者は記している。 ここまでに述べたのは、全て北東アフリカに関する歴史だが、アフリカ南部に関する歴史もある。メラニー・ヤップとダニエル・レオン・マンの著書「Colour, Confusions and Concessions: the History of Chinese in South Africa」によると、中国元代の地図作者の朱思本(中国語版)は、1320年に地図の一つに南部アフリカを描いている。ジンバブエと南アフリカで発見された陶磁器は、宋代の中国にまで遡った。ケープタウンの北にある部族の中には、13世紀に中国の船員の子孫と主張する部族もいるが、彼らの外見は中国人に似ていて、肌の色が薄く、北京語のような音調の言語を使う。彼ら自身は自らを「放棄された人々」と呼び、彼らの言語では「アワトワ」(Awatwa)という。また、彼らとは別に中国系南アフリカ人もいる。
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