戦後の改造機
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「国鉄D51形蒸気機関車」の記事における「戦後の改造機」の解説
画像提供依頼:D51 54の写真の画像提供をお願いします。(2018年8月) 戦後、軍需貨物輸送の事実上の消滅と食糧難に起因する買い出し等による旅客の激増により、戦時中とは貨客の輸送需要が完全に逆転した。これに伴い、戦時中に最優先で量産されていた車齢の若い貨物用機関車が大量に余剰を来す一方で、旅客用機関車は1942年以降製造されておらず、1946年から1947年にかけて急遽C57形32両とC59形73両が製造されて不足が補われ、以後も順次旅客用機関車を増備して旺盛な旅客需要に対応することが計画されていた。実際にもC57・59両形式の追加生産が継続的に実施されており、1948年の段階で機関車メーカー各社は大量の仕掛品在庫を抱えていた。 だが、その後は預金封鎖が断行されるほど逼迫していた政府財政に起因する予算凍結が実施され、国鉄は機関車の自由な新規製造が不可能な状況に陥った。そのため、なおも不足する旅客用機関車を確保すべく、1948年にGHQ側担当将校デ・グロートの助言に従い、本形式のボイラーを活用し、C57形相当に従輪1軸を追加した軸配置、すなわちC57形のパシフィックからC60形やC62形と同様のハドソンとすることで重量増に対応する走り装置と組み合わせた、C61形旅客用機関車が33両製造されている。新規製造ではなく、書類上改造扱いだったため、予算会計上の規制を回避できた。既に車籍が存在していれば、実際には完全な新製であっても書類上「改造」とすることで会計監査上の指弾を免れうる、といういかにも官僚主義的なこの回避策は、戦前の統制経済初期段階から地方私鉄では車両確保の常套手段と化していた方策である。つまり国鉄当局は、貨物用機関車のボイラーを旅客用機関車に転用すればよい、というデ・グロートの助言をこれ幸いと言質にとって、戦前から監督官庁としてその手口を知悉していたこの策を講じた。また、このプランは仕掛状態で宙に浮いていたC57形未成車の部材、ひいては突然の予算凍結で困窮を強いられたメーカー各社の救済という意味合いもあり、33両といういかにも中途半端な製造両数も仕掛部材の残数に由来する。 さらに、1960年には地方線区への転用のため6両に軸重軽減の改造が施され、新形式のD61形となっている。 個別の改造機として注目すべきは、1956年11月の運転業務研究会発表資料として軸重可変機構を付与された、奈良機関区所属のD51 65である。当時の奈良機関区は中在家信号場前後に加太越えの難所を擁す関西本線を担当しており、重量級列車の機関車運用には困難を伴い、特に上り勾配での牽き出し時に重心移動で空転が発生しやすい本形式は、その改善が望まれていた。D51 65での改造は、この問題を解決するために提案されたもので、第4動軸後部の主台枠に空気シリンダーを取り付け、第4動軸と従台車を結ぶ釣り合い梁(イコライザー)の支点位置を移動させて軸重バランスを変え、これにより動軸重を通常の13.96tと15.46tに切り替え可能とするものである。この軸重可変機構は、上り勾配や出発時における空転抑止に加え、撒砂量の減少により軌道保守の負担軽減にも資するという特徴を有し、さらに単純に甲線規格対応の強力機を導入する場合とは異なり、上り勾配区間や駅構内などの必要な区間のみを軌道強化すればよく、本形式の運用線区に制約を加えるものではない、というメリットもあった。もっとも、この方式は動力近代化の方向性が定まってからの改造のためか他車には波及せずに終わっている。ただし、D51 65はその後奈良機関区から吹田第一機関区へ転じ、吹田操車場の入換機として、比較的長期にわたりこの仕様のままで運用された。なお、この軸重可変の思想は本形式の後継車となったDD51形において形を変えて日の目を見ている。 その他にもD51形は使用線区の事情に応じて様々な改造が施され、北海道や東北地方では寒冷地対策として、運転室特別整備工事と称する開放形運転台から乗務員扉の付いた密閉形運転台への改造が実施され、品質の悪い石炭を常用する常磐線で運行されていた水戸、平機関区配置のD51 112・121・123・248・313・381・389・411・503・551・645・647・672・695・821・914・931・946・1024・1068の20両には1仕業での投炭量が4 - 5トンを超過していたことから、機関助士の2人乗務を避けるべく自動給炭機(メカニカルストーカー)を追加搭載、長野では砂撒き管の増設が行われている。その他にも重油併焼装置やATS用発電機の設置、副灯の設置、キャブの屋根の後方への延長、運転室左右の前面部への旋回窓の設置、さらには変形(切り取り式)デフや集煙装置(変形デフや集煙装置の形状は担当工場ごとに細かく異なる)の装備、誘導通風装置(ギースル・エジェクタ)の取り付けなど、変化のバリエーションは多い。重油併燃装置用の重油タンクの装備位置は地域ごとに異なり、ボイラー上のドームの後ろ側に680リットルのカマボコ形タンクを装備するケースと、炭水車(テンダー)の炭庫後方に1500リットルもしくは3000リットルの直方体タンクを装備したケースがある(大型の3000リットルタンク装備車は東北地方に多かった)。また、肥薩線大畑越えに使用された人吉区のD51は、ボイラー上のタンクの容量不足を補うために助手席側ランボード上に200リットルの補助タンクを装備していた。誘導通風装置は、1963年3月に長野工場で改造されたD51 349を皮切りに、117・120・167・226・232・241・252・276・285・293・308・315・328・343・345・357・371・391・413・457・492・509・539・570・605・711・725・733・742・842・952・953・1037・1042・1119の合計36両に対して取り付けられた。シンダの溜まりが多く、また火の粉止めとしての効果も得られるなど好成績で、秋田機関区や北海道の各機関区、特に追分機関区所属車に対して集中的にこの改造が実施されている。 その中でも北海道で活躍したD51 54は、ナメクジ形ドームの砂箱前方を取り払い、その部分より前方を標準形と同様の形態に改装され、ナメクジ形ながら標準形の風貌を持つことで知られた。この機関車は特異な改造だったため、オリジナルを尊重する愛好家からは敬遠されたものの、変形機としての人気があり、地元では「オバQ」という愛称で呼ばれた。
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