戦後の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 13:53 UTC 版)
「吉野村 (花蓮港庁)」の記事における「戦後の改革」の解説
1945年、日本敗戦。すでに2世の代(湾生)が半数を占めていた村民らは「引揚げ」など思いもよらず、中華民国政府の陳儀行政長官に2度に渡って在留嘆願書を提出した。だが翌1946年2月末に引き揚げ命令が下される。4月以降、日本人村民はすべて日本本土に引き上げた。引き揚げ者に許可された財産、荷物の持ち出しは一人につき現金1000円、夏用、冬用の衣類それぞれ3着、布団2枚のみだった。「吉野」の地名は「日本的」との理由で、1948年に「吉安」と改められ、吉野村含め住民が引き揚げたのちの移民村には、客家系の住民が住み付いた。 一方、日本全国に散った吉野村帰還者らは1952年に「吉野会」を900名の会員で結成し、以降は毎年に渡って会合を開催した。1960年、開村70年祝賀の会合では、四国の徳島市に350名が集結している。吉野村時代の真言宗吉野布教所は「慶修院」として1997年に国家第三級古蹟2の指定を受け、2003年11月、花蓮県政府は慶修院を日本円で1億3千万円かけて修復し、当時の住職の息子ら29名の日本人を招待の上で落成式を執り行なった。現在では花蓮近郊の観光コースとして親しまれている。 2019年1月17日、花蓮県吉安郷と徳島県は友好交流協定を締結した。
※この「戦後の改革」の解説は、「吉野村 (花蓮港庁)」の解説の一部です。
「戦後の改革」を含む「吉野村 (花蓮港庁)」の記事については、「吉野村 (花蓮港庁)」の概要を参照ください。
- 戦後の改革のページへのリンク