戦後の政歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 14:01 UTC 版)
「ベンジャミン・フランクリン・バトラー (マサチューセッツ州知事)」の記事における「戦後の政歴」の解説
バトラーは1867年から1875年と1877年から1879年は共和党員として合衆国下院議員になった。戦前は民主党に与していたが、連邦議会ではレコンストラクション立法で急進派共和党員として人目を引き、1871年、クー・クラックス・クラン法を起草した。共和党上院議員チャールズ・サムナーと共に、公共施設での人種差別を禁止する独創性と影響力のある1875年の公民権法を提案した。この法案は違憲と宣言され、合衆国の人種的少数派はバトラーが推進した法の条項を1964年の公民権法が復活させ拡張するまで1世紀近くも待たされることになった。 バトラーはアンドリュー・ジャクソン大統領を上院で弾劾裁判にかけるために下院で選ばれた管理者の一人となり、裁判を開き、最も重要な役割を担ったが、弾劾そのものは不成立だった。 グラント大統領には強い影響力を行使し、下院での広報担当官と見なされた。国債を紙幣で償還することを強く提唱した一人だった。下院議員時代の第42会期では法律改定委員会、第43会期では司法権委員会の委員長を務めた。 1872年、有名なフィリップ・アーノルドによるダイアモンドと宝石詐欺で騙された知名度の高い幾人かの投資家の中にバトラーの名があった。 1878年には無所属でマサチューセッツ州知事選に出馬して落選し、1879年には民主党とグリーンバック党公認で出馬してやはり落選した。1882年、民主党公認で今度は当選したが、民主党は州の他の役職を抑えられなかった。1883年から1884年に知事職を務めた。1884年の大統領選挙ではグリーンバック党と反モノポリ党の大統領候補となり、一般選挙で175,370票を得た。民主党のグロバー・クリーブランド指名を痛烈に批判し、バトラー自身の票をマサチューセッツ州とニューヨーク州で共和党候補ジェイムズ・G・ブレインに渡すことでクリーブランドを負かそうとした。 バトラーの弁護士としての収入は死の直前まで年収10万ドルと推計されている。有能だが風変わりな管理者であり才気あふれる弁護士だった。政治家としては、痛切な反対を呼び起こし、明らかに当然の報いで告発された。バトラーが将軍として指揮を執っていた間にニューオーリンズでその兄弟によって、またバージニアおよびノースカロライナ方面軍ではその義兄弟によって行われた南軍との違法な取引の利益について見逃しまた分け前を得たことで汚職と収賄で告発された。 バトラーはワシントンD.C.での公判中に死んだ。マサチューセッツ州ローウェルのヒルドレス墓地にある妻の家系の墓所に埋葬されている。その子孫には有名な科学者アデルバート・エイムズ・ジュニア、女性参政権論者で画家のブランチ・エイムズ・エイムズ、政治家のバトラー・エイムズ、およびジャーナリストのジョージ・プリンプトンがいる。
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