戦後の復興期
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1945年(昭和20年)11月20日:上野駅 - 新潟駅間に1往復の昼行急行列車が設定。同区間を7時間48分で結ぶ。 12月:石炭不足により、急行列車が廃止。 1946年(昭和21年)11月10日:上野駅 - 金沢駅間を上越線経由で結ぶ準急列車が1往復設定。 1947年(昭和22年)1月4日:石炭事情の悪化により、全国で急行列車・準急列車・二等車(のちのグリーン車)が全廃。 6月21日:上野駅 - 新潟駅・金沢駅間(長岡駅で増解結)に、1往復の夜行急行列車が設定される。上野駅 - 新潟駅間の所要時間は8時間35分。 10月1日:上越線の全線電化が完成。これは、全国的にみてもかなり早いものであった。 1948年(昭和23年)7月1日:同日のダイヤ改正に伴い、上野駅 - 新潟駅・金沢駅間の夜行急行列車が分割され、上越線の急行列車は上野駅 - 新潟駅・秋田駅間の列車と、上野駅 - 金沢駅間の列車の2本となる。 1949年(昭和24年)9月15日:同日のダイヤ改正に伴い、上野駅 - 新潟駅間に1往復の昼行急行列車が設定。その一方で、夜行の上野駅 - 新潟駅・秋田駅間の急行列車は準急に格下げ。 10月:上野駅 - 金沢駅間の急行列車の運転区間を大阪駅まで延長。 1950年(昭和25年)10月1日:同日のダイヤ改正に伴い、昼行の不定期急行列車は定期列車に格上げられ、上野駅 - 新潟駅間の所要時間は6時間50分に。また、上野駅 - 新潟駅・直江津駅間に夜行準急の運転区間を改める。 11月1日:上野駅 - 金沢駅 - 大阪駅間の急行列車に「北陸」と命名され、上越線初の列車名称になる。
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戦後の復興期
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東洋工業本社は広島市周辺で唯一残存した大規模な建物だったため、多くの企業や団体が東洋工業に施設の提供を求めた。広島県庁は1946年(昭和21年)7月まで全機関が東洋工業の施設内で業務にあたり、他にも広島県警察部、広島控訴院、広島区裁判所、広島県食料統制組合なども東洋工業に間借りした。日本放送協会広島中央放送局(現・NHK広島放送局)は東洋工業で放送を再開し、中国新聞は東洋工業から借り受けた三輪トラックで壁張り新聞を掲示して、救護所の場所といった情報を市民に届けた。 占領にあたった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本の平和経済に必要な設備・施設のみの存置を認め、その他は賠償として全て取り立てるという方針を示しため、軍需会社に指定されていた東洋工業は存亡の危機に立たされる事態となった。1946年(昭和21年)に東洋工業は賠償工場に指定され、全社の46%に上る機械や設備が封印され使えなくなったが、当時の内務省警保局長である谷川昇の取り計らいにより、資本金1億円以上の企業のみがパージの対象となったため、資本金3,000万円の東洋工業は幹部の公職追放などは免れることができた。 企業の存続が許されるかも分からず、社内に不安が漂う中、東洋工業は三輪トラックの生産再開を決定し、1945年(昭和20年)9月には久留米市のブリヂストンの工場を訪ねるなど準備活動を始めていた。GHQからも軍需工場の民需生産転換の許可が降りたことから、終戦から4ヶ月後には生産を再開し、マツダ号GA型10台を完成させた。三輪トラックは戦前に軍用に向かないとして生産台数が大幅に減らされていたため、現役で走るその多くが老朽化していた上、戦後に手軽な輸送手段として急速に需要が高まったことから、1946年(昭和21年)には大手メーカーが相次いで参入し、三輪トラック業界は活況を呈した。復興が本格化してきた1950年(昭和25年)頃になると市場からはより大きい積載能力を持つ三輪トラックが要望されるようになり、同年9月、東洋工業は業界初の1トンの積載能力を持つマツダ号CT型を発売。1951年(昭和26年)に三輪トラックに対する車体サイズや排気量の制限が撤廃されたのを受け、同年に4.8mのロングボディを持つCTL型を発売し、翌1952年(昭和27年)には2トン積みのCTL型も登場させた。東洋工業の三輪トラックの売上は1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)までの間に12倍以上に増加した。
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