戦後の復活と国際交流
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「日本のバレーボール」の記事における「戦後の復活と国際交流」の解説
戦後の特色は、学生層の手薄をついたOBチームやクラブチームの進出があげられる。まず1946年の全日本選手権では全兵庫が優勝し、1947年には戦前の強豪・呉工廠を母体とした尼崎製鉄呉がこれに代わり、1948年、1949年には嚶鳴クラブが二年連続優勝の偉業を成し遂げた。嚶鳴クラブは後述する広島市の嚶鳴小学校(現・広島市立古市小学校)のOBチームであった。女子では前田豊率いる戦前からの強豪・東京中村高等女学校が1939年秋から太平洋戦争をはさみ、1947年6月まで、国体、全日本選手権などの公式戦で149連勝を記録、戦後の女子バレー発展の礎を築いた。 戦前の日本のバレーボールは極東に於いても苦戦する状況であったが、1951年パリで開かれた国際バレーボール連盟の会議で、日本バレーボール協会がフィリピンや東ドイツとともに加盟の承認を得た。国際バレーボール連盟ではアメリカのルールが採用されたため、国際ルールはアメリカ発祥である6人制のバレーボールとなり、日本の9人制(極東ルール)は国際的には通用しないことが分かった。しかし6人制と9人制の問題は未解決のまま長く残った。 1957年、日本で国内初の6人制選手権開催。その後も9人制極東ルールが主流であり全日本総合選手権においても1958年6人制が導入されるが、9人制との併用開催が続く。 1960年、ブラジルで開催された世界選手権に日本男女が初参加。女子2位、男子8位。 1961年、日本男女チーム欧州遠征。女子チーム(日紡貝塚)はソ連戦を含めて22連勝し、現地紙で「東洋の魔女」と呼ばれる。 1962年、都市対抗、国体、全日本インカレ(男子)が9人制を廃し、6人制に切り替え。翌年からインターハイも切り替え。全日本インカレ女子は62まで9人制、63は併用、64から6人制のみ。国体は76年に9人制が復活し、以後2010年に再度廃止されるまで6人制との併用が続いた。1962年、世界選手権(ソ連)で日本女子(日紡貝塚)がソ連を破り優勝。国民的英雄になる。翌年、大松監督「おれについてこい!」出版。 1964年 東京オリンピックで女子が金メダル獲得。 1967年 今日のVリーグの前身に当たる日本リーグ(全日本選抜男子(女子)リーグ)が発足。
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