戦後の復興、路面電車の見直し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:40 UTC 版)
「ブレーメン市電」の記事における「戦後の復興、路面電車の見直し」の解説
ブレーメン市電の運行が再開したのは終戦後の1945年6月13日であり、最初に設定された"16N"系統には新しい都市を示す"Neustadt"の頭文字の"N"が付けられた。以降は路線の復旧が進み、1952年までに戦時中に建設された一部区間を除いた全区間の復旧が完了し、以降は更なる路線延長も実施された。車両についても戦災復旧工事が行われた一方、1950年代以降はボギー車、連接車など大型の新型車両の導入も進められた。また1953年にはブレーメン郊外鉄道会社を吸収し、ブレーメン路面電車会社はブレーメンの公共交通を一手に担う事となった。 終戦以降も継続して使用された戦前製の電車 1950年代からは大型ボギー車の導入が始まった 1960年代以降は特殊な構造の連接車の大量生産が実施された 一方、経済発展の中でブレーメンの人口は増え続け、1950年から1958年の間には25%の増加を記録した。これにより公共交通の利用者も増加した一方、自動車やバイクによる道路混雑が激しくなった結果公共交通のダイヤの乱れも深刻化し信頼性が低下し続けた。そしてその中で路面電車が時代遅れの乗り物であると見做されるようになり、1960年代以降ブレーメン南部を始めとする各地の路線が廃止され、路線バスへ置き換えられていった。 Klöckner-Werke電停を含む単線区間は1970年に廃止された だが、路線廃止と並行して幾つかの新規路線の開通も実施されており、1960年代後半以降はバスや自動車以上の大量輸送が可能であるという利点から路面電車を見直す動きが起き始めた。1967年6月18日にはファール(Vahr)地区の新開発地域へ向けて新規路線が開通し、1976年9月24日にはフッフティング(Huchting)地区のローラント・センター(Roland-Center)方面へ向かう路線の延長工事が行われた。 1968年には当時加熱していた学生運動の中で、公共交通の運賃値上げ計画に端を発したブレーメン路面電車暴動(ドイツ語版)が勃発し、多数の路面電車車両やバスが被害を受けた事で機動隊が出動し、多数の逮捕者を出すに至った。そして学生側の会議の結果、最終的にこの値上げ計画は撤回された。ただし1970年代以降ブレーメン路面電車会社(BSAG)は断続的に公共交通の運賃値上げを実施しており、1976年には大規模なデモが起きたもののそれ以降規模の大きな反対運動が起きる事は無かった。 1970年代後半以降はモータリーゼーションの進展やブレーメン自体の人口減少、失業者増加が影響し公共交通自体の利用客が減少した事で、1987年の僅かな路線変更を除き市電の路線網に変化は無かった。一方で車両を始めとする施設の更新は進み、1979年までにポイントの無人化が達成された他、1950年代に導入された旧型車両の置き換えも実施された。1987年には公共交通が無料利用や各地の観光施設の割引などの特典を有するブレーメン・カード(Bremer Karte)の運用も始まった。
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