戦後の復活とスーパーの登場による変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:45 UTC 版)
「日本の百貨店」の記事における「戦後の復活とスーパーの登場による変化」の解説
戦時中の経営統合や空襲での焼失、戦後のGHQによるPXとしての接収などの結果、1938年(昭和13年)に全国で206店舗ほどあった百貨店は、1945年(昭和20年)- 1948年(昭和23年)には119店舗にまで減少していた。1947年(昭和22年)に百貨店法がGHQの意向もあって廃止されたあとは各地で出店が相次ぎ、1954年(昭和29年)には売場面積が1938年(昭和13年)の水準を超え、1955年(昭和30年)には158店舗に達した。 こうした急速な店舗拡張に伴い、中小小売業者から百貨店法の復活が要求された結果、1956年(昭和31年)に百貨店法(昭和31年法律第116号)が成立し、再び出店規制が行われるようになったが、1960年(昭和35年)には310店舗で約152万平方メートル、1966年(昭和41年)には364店舗で約225万平方メートル、1971年(昭和46年)には477店舗で385万平方メートルと、その後も急速に出店や店舗拡大が進んだ。 戦後は戦前からの旧富裕階級が没落したことや、店舗拡大が進んだこともあって一般大衆の顧客化も一段と進み、衣料品や雑貨など日用品を大幅に値引きした特売価格で販売する「特売場」を上層階に設けて一般大衆を引きつけた。こうして百貨店は高級品から一般大衆向けの商品まで幅広く扱う小売業の頂点として君臨し、大食堂や大型遊具まで備えた、家族連れで楽しめるレジャーランド的な場としても親しまれた。 しかし1955年(昭和30年)ごろのスーパーマーケットの登場は、百貨店を大きく変質させることになる。1953年(昭和28年)に東京の紀ノ国屋が初めて導入したセルフサービス式の売場を主体するスーパーマーケットは、1956年(昭和31年)に小倉の丸和フードセンター(現・丸和)が大規模店舗でのセルフサービス低価格販売を開始するなど急速に拡大し、1972年(昭和47年)にはダイエーが三越を上回って小売業第一位になるなど、百貨店を取り巻く環境は大きく変化した。 セルフサービス式の売場は、1962年(昭和37年)9月に西武百貨店(池袋店)、10月に近鉄百貨店と大丸(大阪心斎橋店)が導入したものの、SSDDS(セルフ・サービス・ディスカウント・デパートメント・ストア)は百貨店ではないとして、百貨店では主力の販売手法としては導入されなかった。スーパーマーケットの登場で、大規模店舗で大量販売による低価格という強みを失うことになった百貨店は、店員が対応する対面販売をスーパーにはまねのできない強みととらえるようになり、「値段で売る時代から品質の時代に移り変わりつつある」として品質強化をうたい文句に高価格商品へ主力を移す傾向が現れるなど、百貨店は変貌していくことになった。 こうした環境の変化を受け、地方百貨店の中には大手百貨店の傘下に入って資本力と信用を強化し、高価格化路線への対応する動きが表れる一方、従来からの価格競争路線を維持するため、自らスーパーマーケットに業態転換したり、大手スーパーの傘下に入ったりするものなどが表れ、独立系の地方百貨店は急速に減少していくことになった。
※この「戦後の復活とスーパーの登場による変化」の解説は、「日本の百貨店」の解説の一部です。
「戦後の復活とスーパーの登場による変化」を含む「日本の百貨店」の記事については、「日本の百貨店」の概要を参照ください。
- 戦後の復活とスーパーの登場による変化のページへのリンク