希望が丘緑ヶ丘より賀状くる
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評 言 | 一読、瞬時にイメージの湧きあがる一句である。文意は平明かつ簡潔な内容を示し、差出人の地域名を並列に置いたことで多量の賀状が連想され、相手を思い描きながら眺めている新年の新鮮な気分と、めでたい正月の一場面が浮上してくる。 ところが二読三読しつつ作者の作意を想像していると、一筋縄ではない作者の、主題の屈折を感じるのである。 冒頭のとおり文意は事実を述べただけである。しかし文意の奥に広がる句意の深淵を探っていると、今まで明るい日差しに溢れた賀状の二つの地域が急速に翳り、平和な光景の精彩感がみるみる失われてくるのである。 戦後の復興期から高度成長期にかけて、急速に宅地開発が続いた。丘陵を削り緑地を拓き、掲句に象徴されるような、文字通り希望溢れる新興住宅地が全国的に出現したのである。それは規格品的ではあったが、結果として一億総中流の文化的な生活を享受できたのである。しかし私の住む団地もそうだが、平成の現在は、残された老夫婦の家々がほとんどである。今や、「希望が丘」や「緑ヶ丘」の、希望も緑も変質し、高齢化傾向は老老介護を筆頭に老齢対策にじわじわと波及しているのである。 いま掲句の句意の読みの一つとして私感を前述したが、作者をひとたび離れた作品は、理解も解釈も読者の自在であり、それが俳句の醍醐味であるのだが、当然その要因は短さにある。 いうまでもなく俳句は唯々諾々と短いのではない。作者の決意として志として短いのである。それゆえに作意も文意も句意も、作者から読者への伝達の過程でつねに変転するのであろう。 掲句もその好例の一句といえるのである。 |
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