ジャーナリスト、ケンタッキー州知事および金本位制の守り手
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「サイモン・B・バックナー」の記事における「ジャーナリスト、ケンタッキー州知事および金本位制の守り手」の解説
バックナーは南軍が降伏した後、1865年6月9日にルイジアナ州シュリーブポートで釈放された。釈放の条件のために3年間はケンタッキー州に戻れなかったので、ニューオーリンズに住み、「デイリー・クレセント」紙のスタッフとして働いた。1868年に資格ができたのでケンタッキー州に戻りルイビルの「クーリエ」編集者となって、1887年まで務めた。この期間に多くの元南軍士官と同様、連邦議会にアメリカ合衆国憲法修正第14条に規定される市民権の回復を請願した 1887年、バックナーは民主党員としてケンタッキー州知事に当選し、1891年まで務めた。 1896年のアメリカ合衆国大統領選挙では国民民主党(あるいは「ゴールド民主党」)で副大統領候補の指名を得た。そのときの大統領候補はジョン・M・パーマーであり、北軍の元将軍だった。 民主党の大統領グロバー・クリーブランド政権下で起こった経済不況のために民主党は分裂し、大統領候補にはウィリアム・ジェニングス・ブライアンを指名した。 バックナーはブライアンが要求する「銀の自由鋳造」、すなわち銀の金に対する価値を16対1に設定し、その価値で米ドルに結びつける考えに反対した。この考え方は当時の世界の商品市場で銀と金の価値が約32対1になっていたことに対抗していた。バックナーはブライアンの考え方ではアメリカ経済を滅ぼすと考えた。この現実離れした運動を実行する中で、19世紀の政治運動として古典的自由主義の「最後の抵抗」を試みた。 バックナーや他の国民民主党の創設者は、民主党をトマス・ジェファーソンやグロバー・クリーブランドの言う小さな政府を守る手段と見ており、ブライアンに裏切られたと考えた民主党員を目覚めさせた。党執行委員会はその最初の公式声明で、民主党は、「各個人の能力で、援助も無く、法律で縛られなければ、自分自身の幸福を掴める」と考えていたのであり、その「やりたいことを平和的に追求する権利と機会は、その行動が他人から同じような権利と機会を享受することを奪わなければ、それを保持できる。言論の自由、思想の自由、通商の自由および契約の自由の立場に立ち、それらはすべて民主党の1世紀にわたる鬨の声「個人の自由」で主張されてきた」と宣言した。国民民主党は民主党の通貨膨張論政策と共和党の保護主義を批判した。 パーマーとバックナーは一般投票で得票率1%以上を獲得した。明らかに国民民主党の考えを支持する多くの者は、共和党のマッキンリーが金本位制を支持しそれが選挙に勝つ可能性を広げると認識していたので、マッキンリーに投票した。 バックナーが死んだ時、南軍の准将以上の士官では最後の生き残りになっていた。ケンタッキー州マンフォードビルで死に、フランクフォートのフランクフォート墓地に埋葬されている。 その息子サイモン・B・バックナー・ジュニア(1886年-1945年)は第二次世界大戦の沖縄戦で戦死したアメリカ陸軍の中将である。
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