シージャック事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/11 19:51 UTC 版)
「アキレ・ラウロ号事件」の記事における「シージャック事件」の解説
1985年10月7日、エジプトのアレクサンドリアから同国ポートサイドへと向かう航海の途中、武装したパレスチナ解放戦線の男4人がイタリアの旅客船アキレ・ラウロ号を掌握した。 シージャック犯は乗客と乗員を人質に取りながら、船をシリアのタルトゥースへ向かわせ、当時イスラエルの収容所にいたパレスチナ解放戦線のメンバー50人の釈放を要求した。タルトゥース入港を拒否されると、シージャック犯らは車椅子に乗っていたユダヤ系アメリカ人男性乗客、レオン・クリングホーファーを銃撃し海へ突き落として殺害した。船はポートサイドへと回頭し、2日間の交渉の後、シージャック犯は自由通行許可証と引き替えに投降して船を放棄し、エジプト航空のボーイング737に搭乗してチュニジアへ向かった(このボーイング737は、後にエジプト航空648便ハイジャック事件で破壊されることになる)。 10月10日、当該機はアメリカ海軍第6艦隊所属の空母サラトガから発艦した戦闘機F-14によって迎撃され、シチリア島のNATO軍シゴネラ海軍航空基地への着陸を指示された。アメリカとイタリア当局の不和の中で、シージャック犯はイタリア側により逮捕された。機上の他の乗客たち(おそらくシージャック犯のリーダーであるアブー・アッバースを含む)は引き続き目的地までのフライトを許された。当該機にコースから外れることを強要したことについて、エジプトはアメリカによる謝罪を要求したが、アメリカは異議を申し立てている。 有罪判決を受けたシージャック犯のその後は様々である。 バッサム・アル・アスカーは1991年に仮釈放を許され、2004年2月21日に死去した。 アフマド・マロウフ・アル・アサッディは仮釈放中の1991年、姿を消した。 ヨゼフ・アル・モルチーは禁固30年を宣告された。1996年2月16日に12日間の賜暇を得てローマのレビビア収容所を出所した際、空路スペインへ渡ったため、現地で再逮捕、イタリアへ強制送還された。 アブー・アッバースはイタリアの管轄区域から離れ、当事者不在のまま有罪判決を受けた。1996年、アッバースはシージャックと殺害について謝罪し、パレスチナ-イスラエル間の和平対話を主張したが、アメリカ政府とクリングホーファーの家族は謝罪を拒絶し、法の下で処罰されるよう迫った。アッバースはイラクのサッダーム・フセイン政権によって匿われていたが2003年のイラク戦争によりフセイン政権は崩壊、アメリカ軍によってバグダードで逮捕され、2004年3月8日にアメリカ軍による勾留下、心臓発作を起こし死去した。 PLO(パレスチナ解放機構)はレオン・クリングホーファーの死に関与したとして提訴されたが、訴訟はPLOがクリングホーファーの娘たちに非公式に賠償金を渡すと取り下げられた。その金は名誉毀損防止同盟レオン・アンド・マリリン・クリングホーファー追悼基金の設立に用いられ、法的、政治的および経済的な手段でテロリズムと対決するのに用いられている。 事件の後もアキレ・ラウロ号は旅客船として航海を続けたが、1994年11月30日、ソマリア近海で火災が発生するとアキレ・ラウロ号は放棄され、12月2日に沈没した。
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